磐城国 海の風土記3「おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性」(後編)

2018-7-17
海と日本PROJECT in ふくしま

 

 

磐城国 海の風土記 vol.3

おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性(後編)

文章:江尻浩二郎

 

おふんちゃんの社殿は先の震災で大きく傾いてしまいました。参拝する度に傾きはひどくなり、結論から言うと、氏子総代会は麓への遷座を決定しました。高齢化によって山頂での祭祀が難しくなってきていることもありますし、山頂に再建するには資材の運搬等で困難を極めるという事情もあります。

山頂での祭祀は昨年(2017年)が最後でした。日の出前に登拝しましたが、山頂では私一人。あいにくの曇天で御来光を拝むことはできませんでした。一度下山し、午前5時、宮司と総代会の方々と再び登山。供え物をし、社前のサカキから玉串にする枝を切り、準備万端整えると、やがて地区の家長20名程が登って来ました。酒と「なます」が振舞われ、祝詞を上げ、お札(ふだ)を頂いて終了。山頂での最後の大祭が終わりました。

余談ですが、おふんちゃんの社前のサカキはマサカキ(真榊)です。このとき氏子の方から「サカキ(真榊)の自生北限はこの辺(富岡)だそうだ」という話を聞きました。植物の自生限界などははっきりと線が引けるものではありませんが、一般的にサカキ(真榊)の北限は茨城県あたりとされており、しかし確かに磐城では(あまり大きく育たないものの)真榊を見ることが少なくありません。

ちなみに磐城衆が通常サカキとして扱っているものは、実はヒサカキであることが多いです。少し小ぶりで葉にギザギザがあるのですぐ分かります。店で売っているのもヒサカキです。漢字では「姫榊」と書きますが、「榊に非ず」で「非榊」と当てることもあります。サカキというのは「境木」で常緑樹であればなんでもいいということになっていますが、やはり真榊は特別なものと考えていいでしょう。

我々はヤマトが神事に用いる最も重要な植物を「代用」、もっと辛辣な言葉で言えば「偽物」で済ませている。これは大変に象徴的なことだと思います。

 

山頂で行われた最後の大祭

  1. 朝5時、総代会の面々が参道を登る
  2. 手前の低木は真榊。周辺にも植生が見られる
  3. 傾いた社殿前での祝詞奏上

 

もうひとつ余談になりますが、実はこの「おふんちゃん」には戊辰戦争に関わる大変悲惨な歴史があります。本多忠緯、高萩精玄「磐城戊辰史」に拠ると、1968年旧暦629日、仙台藩の部隊が、新政府軍に占拠された泉藩泉城を奪還すべく、 小名浜から泉方面へと向かいました。「二ツ橋」まで来ると既に新政府軍は対岸の富岡村の丘にあって大砲小砲を乱射したと伝えられています。

詳しい記録はありませんが、周辺の地形などを考えあわせると、この「富岡村の丘」というのは「おふんちゃん」の山頂付近である可能性が高いと思われます。尾根筋を登る参道は非常にゆるやかで、また大祭(旧暦61日)の後であることから、よく手入れされていたことが想像できます。山頂まで大砲を運ぶことも十分可能だったでしょう。

仙台藩は応戦しましたが、地の利なく総崩れとなり、小名浜西町方面に退却。更に中ノ作へと敗走し、沖合の船へ撤退しようとしましたが、 潮の流れが悪く一部陸に押し戻され、新政府軍の容赦ない銃撃に晒されてしまいました。この一連の戦闘による死者は仙台藩士のみで73名。全体では120名ほどの死者が出たとも言われています。

戦いの舞台となった「二ツ橋」のたもとに「仙台塚」と呼ばれる石塔が今も残ります。この地で戦死した仙台藩士の供養塔です。死者は塚のある「西橋本」に32名、少し下流の「後場(あとば)」に18名葬られました。その後、後場のものを西橋本に合葬。現在この地には50名の仙台藩士が眠っていることになります。また中之作では23名亡くなっており、石碑にはそれも併せて記してあります。

戊辰戦争における「磐城の戦い」とは、慶応4年(1868年)旧暦616日、新政府軍の平潟上陸から、87日、相馬中村藩の降伏までを指します。当時の磐城は、磐城平藩領、湯長谷藩領、泉藩領、幕領小名浜、笠間藩分領、棚倉藩分領、多古藩分領、飯野神領と8つもの領地に分かれており、それぞれの動向は「磐城」という地域の括りで語ることができません。その複雑さからか、これまであまり注目されることがありませんでしたが、戊辰150年を機に、地元郷土史家らが詳細な検討を進めています。

 

磐城の戦いはあまり知られていない

  1. 仙台塚。今でも供物が絶えない
  2. 対岸よりおふんちゃんを望む。大砲を据えたのはこの山頂付近か
  3. 二ツ橋。かつては中洲があり、橋は二つに分かれていたという

 

富ヶ浦史という書物があれば大きく紙幅を割かれたであろう「おふんちゃん」の遷座祭は、今年(2018年)512日午後7時、多くの氏子が参集し、厳かに執り行われました。宮司を含め全員が初めての経験であり、ひとつひとつの作業をお互い十分に確認しながら、大変緊張感のある祭祀となりました。夜を選ぶのも理由があるのでしょうか。宮司に抱えられた御神体は、衆人から見られぬよう白布で隠された状態で暗い参道をそろそろと下り、社前までたどり着くと、関係者らの「ヲー」という警蹕(けいひつ)と共に一気に新社殿へお入りになられました。富ヶ浦国の歴史が変わった瞬間です。

 

富ヶ浦の神が下山する

  1. 宮司に抱えられ参道を下る
  2. 衆人の目に触れぬよう白布で覆う
  3. 新社殿での遷座祭

 

今年(2018年)の旧暦6月朔日は713日でした。遷座後初めての、つまり麓で行われる初めての大祭です。昨年に続き、今年も日の出前に登ってみました。月齢0ですが、分厚い雲に工場や港の明かりが反射して大変に明るい。小名浜衆はもう80年ほど闇を忘れてしまっているのです。今年も曇天で御来光を拝むことはできませんでしたが、しかしたった一人、深夜の山頂で太古の富ヶ浦に思いをはせるのは、なんとも贅沢で物狂おしい時間。

その後、麓での初めての大祭。今年は太鼓が出されました。かつて地区の長男たちが山頂で夜通し叩いていたという太鼓です。震災後は担いで登ることがなかったのですが、麓での大祭ということで久々のお目見えとなりました。明治20年の奉納。かつての青年たちが代わる代わる、思い思いに人寄せの太鼓を打ち込んでいきます。祭祀はつつがなく執り行われました。遷座という未曽有の大役を果たし、氏子のみなさんの表情も明るい。これからも富岡の祭祀はこの場所で続いていくことでしょう。

 

遷座後初めての大祭

  1. 日の出時刻(4時29分)の山頂からの眺望
  2. 次々と太鼓が打たれる
  3. 大祭はつつがなく行われた

 

最後にもうひとつ。「おふんちゃん」という呼び名は「富士山」→「お富士さん」→「おふんちゃん」である訳ですが、「フジ」から「フン」という音便は珍しいように思います。私の知る限りでは、青森県藤崎町(ふじさきまち)が「フンジャギ」または「フンチャギ」と呼ばれていました。他にも事例があればぜひ教えていただきたいです。

しかし改めてこの「おふんちゃん」という呼び名はどうしたことでしょうか。関西の方が神様を「えべっさん」「すみよっさん」などと親しみをこめて「さん」付けで呼ぶことはつとに有名ですが、我々小名浜衆は、あろうことか天下の富士山、浅間神社、木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)をして「ちゃん」付けですよ。もうこのへんが小名浜衆の真骨頂を見る思いで、個人的には痛快極まりないです。

さて今回は、多分に妄想的でありますが、「富ヶ浦」というワードを軸に、古代磐城の海岸線とその信仰に思いをはせてみました。今現在の人や物の流れで考えれば、「富岡」がここ「富ヶ浦」の中心であるという感覚はなかなか生まれにくいかと思います。しかしこの「おふんちゃん」の山頂から浦を一望し、少々想像をたくましくしてみれば、いくらか客観的に、そしていくらか相対的に、この地の不具合を診察できるかもしれません。何百年、何千年というスパンで物事を感じるということには、そのような効用があるはず。私はそう考えるのです。

 

参考文献・参考サイト
高萩精玄「磐城市の歴史-中世まで」1966
本多忠緯、高萩精玄「磐城戊辰史」1968
いわき市神社総代会「いわきのお宮とお祭り」2009
谷謙二研究室(埼玉大学教育学部人文地理学)「東北地方太平洋沖地震・東日本大震災関連の標高・等高線・人口等の地図・GISデータ」201

 

<vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性(前編)

>vol.4 神白~ちはやぶる神の城から

 

磐城国 海の風土記(全10回)

目次

vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画

vol.2 ウミガメ〜彼方とヒトを繋ぐもの

vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性(前編)

vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性(後編)

vol.4 神白~ちはやぶる神の城から

vol.5 住吉~極東の海洋都市

vol.6 湯ノ岳~小さな霊峰の幽かな息づかい

vol.7 ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体

vol.8 剣~ハマの亡霊が魅入るもの

vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市

vol.10 クジラ~沖を行くものの世界(完結)

 

イベント名おふんちゃん
場所福島県いわき市小名浜南富岡富士下54

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