みなさんこんにちは。海プロ in ふくしま、レポーターの久保田です。
新型コロナウイルスの感染拡大で、仕事にもいけず、お出かけにもいけず…という日々がここしばらく続きました。時間に余裕があると、自分の生活を足元から見直すことも増えましたよね。
「今までの便利な生活、このまま続けてもいいんだっけ?」
そんなふうに問い直すことはありませんでしたか?
便利な生活は「早く、多く、安く」を追求し続けました。一方で、ウイルスや災害のようなイレギュラーなことがあると、そうした生活の基盤が脆くも崩れ去ってしまう-このことは、皆さんこの数ヶ月で感じた通りだと思います。
そこで僕は考えました。「不便な中でもたくましく人々が生きていた昔の海の暮らしには、困難な今の世の中を生きる私たちにとってヒントがあるのではないか?」と…
この企画では福島の海で長年暮らす人たちにインタビュー。昔の海の暮らしから、現在の不安定な世の中を生きるヒントを探ります。
第一回目はいわき市・中之作でリサーチ。昔の中之作地区はどんな場所だったんでしょうか。
昔の海の暮らしはどうだった?①
〜いわき市・中之作編〜
いわき市小名浜からまっすぐ東に車を進めると、10分少々で到着するのが中之作地区。
休日に行くと港に数台の車が停まっていて、釣りを楽しんでいる方の姿がうかがえます。
中之作のまちはこぢんまりとした、ゆっくりとした時間が流れる場所。なんとなく映画のロケ地のような雰囲気があります。
港に着いて、まずお伺いしたのは「坂本つり具店」。
この「坂本つり具店」は、古くは魚を運ぶトラックのためのガソリンスタンドを営むなど、常に海とともにあったお店。
現在でも店主のお父さんは漁をされているそう。
話を伺うと、以前の中之作は漁港に多くの船がひしめきあい、文字通り魚とともにあった生活だったとのこと。
港から船が出船する時は小学校は休みになり、紙テープが舞い、街を挙げた祝賀ムードだったとか。お母さんはその風景を初めてみた時、感動して涙が出たほどだとおっしゃっていました。
街は漁業を営む人によって成り立っており、薬屋さん、衣料品店、喫茶店やパチンコ屋さんまで、なんでも中之作の中で揃ってしまうほどの賑わいだったそう。
(最盛期の中之作漁港。『中之作村』より)
ちなみに、「魚はどこで買っているんですか?」と伺ったら、「魚は買って食べるものじゃなかったよ」という返答が…
「親戚に必ず漁師をやっている人がいたから、その人にもらうか、魚を運ぶトラックが道に落としていったものを拾って調達していた」とのことでした。今だったらスーパーのバイヤーが青ざめる衝撃的な光景です。
お話を伺っていると、「この辺のことは松本茂さんがなんでも知ってるから聞いてみて!」というアドバイスが。松本さんは中之作の歴史を本にまとめて出版までされた、いわば「中之作の専門家」とのこと。
そんなわけで、早速松本さんのご自宅にも直撃取材してきました。
松本茂さんは大正13年生まれの御歳96歳。いまだに杖なしで歩かれる健脚ぶりです。
(松本茂さん。なんと「増えるワカメ」の発明者という一面も持ち合わせるお方。)
ご自宅にはなんと戦前のものという中之作の写真も!
昔の中之作は北洋漁業※が盛んで、それによって成り立っていたのだそう。
(※北洋漁業とは日本の太平洋沿岸の漁港を母港とし、ロシア極東やアラスカ沿岸で行われた大規模なサケマス遠洋漁業のこと)
そして、北洋漁業の他にもカツオの水揚げ量も相当程度あったらしく、こちらは鰹節にして出荷していたとのこと。その鰹節は出荷する時には紙に包んで出荷していたんだそうです。現在では海洋プラスチックゴミが世界的な課題になっていますが、この方法だったら環境に良さそうだなんて思ったりもしました。(一方で、手紙や文書などありとあらゆる紙を使っていたために、中之作にはあまり史料が残ってないなんてお話も)
(中之作の最盛期に当時の水産庁の重役が来た時の写真。立派な港湾施設が目を惹きます。)
一方、中之作では採れない野菜や米は、隣の永崎地区から行商がやってくることで調達できたのだそう。今のように車で大型商業施設に出かけることなく、近隣の地区とやりとりしながら、街の中で全てが揃う仕組みがあったことがうかがえます。
そして、集落の中にある神社のお祭りは、親戚一同が揃い、老若男女みんなが顔を合わせる貴重なコミュニティの場。皆が助け合って暮らしていたようです。ちなみに、中之作地区は、2011年の東日本大震災による津波で大きな被害を受けましたが、隣近所の助け合いや日頃から訓練を怠らなかったことで、犠牲者を一人も出さなかったとのことでした。
(港でのお祭りの様子)
しかし、漁業を中心とした、物や人とのつながりが身近で全てが揃うような生活環境も、国際関係の変化による影響を受けます。200海里の排他的経済水域の設定など、国際間の規制が強化されてしまったために北洋漁業が衰退。その後、イカ漁などで凌ごうとしたものの不発に終わり、漁業とともにあった中之作の街はだんだんと過疎化の波に飲み込まれていったとのことでした。
なるべく地のものをその場で消費し、足りないものは近い距離でやり取りして、生活が成り立っていた中之作地区。しかし、北洋漁業という主幹産業が明治期に芽生えたことにより、良くも悪くもそれがなくてはならないまちとなっていったようです。
そんな中之作地区から、このコロナの時代に学べることをまとめてみました。
コロナ時代に活きる!
昔の中之作の暮らしから学べること
「開疎化」なんてワードもこのコロナ禍で出てきましたが、それに近いような考え方が昔の港町にはあったようです。適度な距離を保ちつつも、お互いがその場その場で独立した経済圏を持っていること。このことが、これからの予測不能な時代において大切になってくるのではないでしょうか。
不安定な世の中を生きるヒントを昔の海の暮らしから探る連載。初回はいわき市の中之作編でした。
みなさんもお住まいの地域の昔の暮らしを調べてみると、今の時代を生きるヒントが隠されているかもしれません。
それではまた次回!
<海プロ in ふくしまレポーター・久保田貴大>
<取材協力>
坂本つり具店(いわき市折戸岸浦68−1)
松本茂さん
中之作プロジェクトの皆さん
<参考資料>
松本茂著『中之作村』(出版・松本茂 発行年・2008年)
中之作プロジェクト『インターン生による中之作・折戸地区の空き家等調査報告』
イベント名 | 昔の海の暮らしはどうだった?① 〜いわき市・中之作編〜 |