みなさんこんにちは。海プロ in ふくしま、レポーターの久保田です。
前回から始まった、不安定な現在の世の中を生き抜くヒントを昔の海の暮らしから探ろう、というこの連載企画。
今回は前回取り上げたいわき市中之作のお隣、いわき市・江名の昔の海の暮らしを取材してきました。
江名はいわき市の東部にあり、三方を山に囲まれた港町です。
そんな江名の昔の暮らしはどんなふうに営まれていたのでしょうか? 早速お話を伺いに行って来ました!
昔の海の暮らしはどうだった? ②
〜いわき市・江名編〜
お話を伺いに行った日は生憎の雨… しかも江名に近づけば近づくほど雨脚は強くなり、風も吹き荒れはじめました。
なんともハードな取材になりそうな予感…
そんな悪天候の中でしたが、まずは港に車を停め、複数の商店が並ぶ通りを探索。
雨ということもあってひっそりとした雰囲気ながらも、薬局や電器屋さんが並び、生活の足音が聞こえるような通りです。
しばらく通りを歩いていると昔ながらのお米屋さんが一軒。入ってみると、店主のお母さんがいらっしゃいました。
「雨だから上がってお茶でもどうぞ」といって、営業中ながらもご自宅にお邪魔させていただきました。(ありがとうございます)
お店と棟続きになったご自宅には立派なお仏壇と神棚が。「今の若い人はこんなのいらないっていうんだけど、でもあるんだから仕方ないわよね〜」とお母さん。
お母さんはもともといわき市内の山の方で生まれ、ご結婚と同時に江名に移り住んだそうです。
今はご主人を亡くされ、お子さんも東京などそれぞれの地域に移り住み、お店はお母さん一人でやっているとのことでした。
(ちなみにお母さんはとてもシャイな方でお写真はおろか、お名前も教えていただくことができませんでした…)
江名の昔の様子を伺うと、前回の中之作と同様に、以前は北洋漁業が非常に盛んなまちだったとのことでした。
しかし、その北洋漁業は200海里の排他的経済水域の設定などで規制が厳しくなり、「減船」という政策が行われ、行政の方針で船が減らされたそうです。
そして、そういった規制や政策によって営業ができなくなった漁業者には、政府からの補償金が支払われることになりました。
金融機関から融資を受けて漁船などの設備を買い揃えていた漁業者は、その補償金をあてにして借金を返済し、廃業してしまうところが多かったのだそう。
その後、江名のまちは漁港としての機能が急速に衰退。昔は魚市場もあったそうですが、現在はほとんどその姿をとどめていません。
そんなお話をしばらく伺っていると、もっと江名に詳しい方を紹介していただけるとのことで、お母さん自らアポをとっていただきました。(本当にありがとうございます)
「もう少し通りを歩いたところに酒屋さんがあるから、そこでお話を聞いてみて!」とのことで、お母さんにお礼を言ってさっそく酒屋さんに向かいます。
言われた通りしばらく通りを歩いていると、とても立派な酒屋さんが!
伺ったのは「土佐屋酒店」さん。いかにも代々続く立派な酒屋さんという風格です。
さっそくお店の中に入ってみると、店主のお母さまが店番をされていました。
お母さんもまた、お嫁入りする前はいわき市の平の生まれで、結婚を機に江名に移り住まれたのだそう。
同じいわき市内ではありますが、やはり市街地の平と港町の江名では相当なカルチャーショックがあったそうで、「結婚してから苦労が多すぎて昔のことなんて覚えてない」なんて冗談もおっしゃってました。
「昔のことなら主人の方が詳しいから!」ということで、これまたお店の奥に通していただき、このお店の7代目、吉原幹郎(82)さんにお話を伺いました。
(吉原幹郎さん。御歳八十二歳。男前です。)
吉原さん一家が営まれているこちらの「土佐屋酒店」はなんと江戸時代の創業。古くは漁師に祝酒を振る舞う港町の酒蔵だったそうで、現在の酒販店となったのは戦後のことだそう。
戦後間もない頃、江名には船のオーナーである船主(いわば資本家)が多く、お金持ちに被選挙権が与えられる当時の石城郡議会議員選挙では、候補者36人のうち約半数の17人が江名出身者だったんだとか。
(昭和60年4月10日付『いわき民報』より。マーカーで塗られているのが江名出身者。)
吉原さんによると、江名の人たちはチャレンジ精神が旺盛で、いろんな事業に果敢に挑戦したことがたくさんの富豪を輩出した理由なんじゃないかとおっしゃっていました。
そんな江名の港はもともとアンコウやノドグロなどの底引き船が寄港する港だったとのこと。
しかしそうした魚の漁獲量が徐々に減少。そんな時にちょうど、北洋漁業が国のあっせんのもと江名にも導入され、以後、港の最盛期を迎えることとなります。
当時は中学校を卒業したら船の乗組員として海に出るのが普通で、最初は飯炊きから始まり、その後機関長や無線局長を経て船長、さらには船頭となるのが出世街道。
若くても腕さえあればあっという間に船頭になってしまう人もいたそうです。
そして、北洋漁業の最盛期にはまちの外からも多くの労働者が集まり、いくつもの団地が造成されたのだそう。
(当時の写真。びっしりと船が並ぶ港の奥に見える、削られた山肌が団地の造成地とのこと。)
当時は30代で家・車・家族を持つのが当たり前というくらいの豊さを誇っていたという江名のまち。
しかし、先ほどのお米屋さんのお母さんのお話にもあったように、北洋漁業は徐々に斜陽化。
さらには、自由化の流れでスーパーマーケットなどの新たな小売形態が出現。それにより従来の流通機構が大規模・効率化。
以前はリアカーを引いたおばちゃんが港の市場に買い付けに来て、それを平の街まで運んでいったなんてこともあったそうですが、だんだんとそういった個人の買い付け人も減少。いわき中央卸売市場の設立もあり、江名の港の市場は閉鎖となってしまったようです。
さて、そんな昔の江名の暮らしからの今の時代に生きるヒント。今回も僕なりにまとめてみました。
今回はちょっと深掘りして経済の構造まで考察してみました。
都市化やライフスタイルの変化によって良い影響が生まれた一方、見えないところで負の影響が生まれる可能性がある。こういったところには常に着目していたいなと思いました。
震災の影響もあり、今では静かになってしまった江名のまちですが、伺ったみなさんはどの方も熱心にインタビューに答えていただきました。
吹き荒れる雨の中にも関わらず取材にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました!
不安定な世の中を生きるヒントを昔の海の暮らしから探る連載。2回目はいわき市の江名編でした。
それではまた次回、福島のどこかの港町でお会いしましょう!
<海プロ in ふくしまレポーター・久保田貴大>
<取材協力>
土佐屋酒店(福島県いわき市江名北町104−1)
吉原幹郎さん
お米屋さんのお母さんとそのお友達のお母さん
<参考資料>
昭和60年4月10日付『いわき民報』「40年前のいわきの経済」特集
佐藤孝徳『昔あったんだっち』 いわき地域学會出版部,1987
イベント名 | 昔の海の暮らしはどうだった?② 〜いわき市江名編〜 |