みなさんこんにちは。海と日本プロジェクト in ふくしまレポーターの久保田です。
新型コロナウイルスの猛威が東京を中心に再び勢いを増してきている昨今。再び4月に発出された緊急事態宣言のような事態にならないことを祈るばかりです…
さて、不安定な現在の世の中を生き抜くヒントを、昔の海の暮らしから探ろうというこの企画。前回・前々回といわき市東部の港町を取材してきました。そして、今回もいわき市の沿岸を北上し、前回取り上げたいわき市江名地区のお隣、いわき市平豊間地区でお話を伺ってきました。
中之作地区、江名地区は昭和のころ、北洋漁業で賑わった地区というのは今までお伝えした通り。今回ご紹介する豊間地区は現在までどのような経緯を辿ってきた地区なのでしょうか。今回も突撃取材で伺ってきました。
昔の海の暮らしはどうだった? ③
〜いわき市・豊間編〜
平豊間地区は北に塩屋崎灯台、南に二見ヶ浦を擁し、豊間海岸は普段から多くのサーファーが集ういわき市の中でも有数の観光スポット。今回はそんな豊間地区で食堂を営む「きゅういち」さんにまず伺いました。
きゅういちさんは昨年4月に現在の店舗で営業をスタート。目の前に豊間海岸を臨む絶好のロケーションで、仕込みから手作りというさんまのポーポー焼きがウリのレストラン・カフェと、トレーラーハウスを使用した宿泊施設の営業をされているお店。車を駐車場に停めてお話を伺おうかと思いましたが、残念…! 今日は定休日とのこと。それでも、偶然お店にいらっしゃったご店主に取材のお話をすると、この地区の歴史に詳しい方がいるとのことで話をつないでいただきました。(ありがとうございます!)
その方はもともと酒屋さんを営まれていたそうで、きゅういちのある場所からも立派な蔵のあるお宅が見えました。きゅういちのご店主に直接お宅をご案内いただき、到着したのがこちらのお宅。
前回江名編でお尋ねした土佐屋酒店さんもそうでしたが、こちらのお宅もいかにもこの土地に代々続く豪商の家といった風格。このお宅に住まわれている方ならきっと豊間の歴史について詳しくご存知のはずです。
さっそく建物の中にお邪魔すると、色鮮やかな織物がずらり。こちらのお宅、実は着物や雑貨を扱いながら、カフェも営業されているお店なんだそう。「きものと和裂 ほうせん」と名付けられたこちらの店主にご挨拶をすると、店主のご両親がこのあたりの歴史についてお詳しいとのことで、さっそくお二人にお話を伺いました。
(お話を伺った馬目政俊さん。奥様の陽子さんはシャイな方でお写真NGでした…)
取材の趣旨をお伝えすると、「昔の豊間の写真があるから見せっぺ!」と写真を見せていただきました。
こちら、昭和15年頃の写真とのことですが、写っている巨大な魚はなんとマグロ。この辺りでは以前、大敷網(おおしきあみ、定置網の一種)を使ったマグロ漁が盛んだったそう。水揚げされたマグロはトラックに載せて泉駅まで運び、そこから東京の築地市場に出荷されていったとのこと。現在いわき周辺で地元産のマグロを目にすることはほとんどありませんので、この写真はなかなか衝撃的なものです。
お話を伺っていくと、豊間地区はもともと半農半漁の集落だったそうで、それぞれの家が小さいながらも田んぼをやりつつ、しかしそれだけでは足りないので漁にも出ていたんだとか。春の農繁期には田んぼをやりますが、夏は沿岸でウニやアワビを採ったり、あるいは隣町の江名から北洋漁船に乗り込みサンマ漁に出かけ、そして冬は魚の加工工場で働く、というのが豊間のライフスタイルだったそう。季節に合わせて柔軟に仕事をするオールマイティーな生活を営んでいたことが伺えます。
ちなみに豊間のお隣江名地区は、前回の記事にも書いたように漁船の船主が多く、豊間にはその江名の船主が所有する船の乗組員がたくさんいたんだそう。逆に豊間では、江名で水揚げされた水産物を加工する工場が多く立地しており、2つの集落は相互に依存する関係だったそうです。特に江名の水産業の恵みは豊間地区をも潤し、昭和30年代から50年代までにほとんどの家が藁屋根から瓦屋根へとその姿を変えたほどだったとか。
そして、そんな豊間地区で江戸の末期から代々酒店を営んできたのが馬目家。もともと「豊仙」というブランドで酒造業も営んでいたんだそう。お店の前に佇む蔵はその当時のもののようです。
戦前、いわきには同様の酒蔵が何十か所もあったそうですが、戦時中の国家総動員体制で一旦その数を減らします。豊仙の蔵も戦時中に一旦酒造業を休止。しかし、戦争が終わって10年ほど経った昭和30年代に酒造業を再開。再び「豊仙」のブランドの酒が世に出ることになりました。
当時の酒蔵は「南部杜氏」と呼ばれた岩手県から出稼ぎに来る杜氏と、「越後杜氏」と呼ばれた新潟県から来る杜氏がおり、豊仙の蔵は新潟県柏崎の「越後杜氏」を雇っていたとのこと。杜氏さんは季節労働者で、夏は地元で農業を営み、冬の農閑期に出稼ぎに来て酒造りをしていたんだそう。昭和30年代〜昭和40年代頃まではそうやって他の地域から杜氏を雇って酒造業を営むのが一般的だったとのことでした。
一方で、その当時は戦後の高度成長期真っ只中。昭和39年(1964年)には東京オリンピックも開催され、日本の景気は右肩上がりの時代です。製造業を中心に新たな人手を求める企業が続出。「金の卵」とも呼ばれたように中卒の若年労働者が大量に都市部に流れ込んだ時代でした。そんな時代においては人を雇うための人件費も大幅に上昇。特に日本の主要産業となった自動車産業がその流れを後押ししたとのことで、酒蔵で雇っていた杜氏の多くがそうした都市部の求人に流れていったんだそう。ビールやウイスキーといった新たなアルコール飲料の登場もあり、酒蔵の多くは経営難に陥っていったとのことでした。
(「きものと和裂 ほうせん」の店内。昔はここで春に地元に帰る杜氏さんの送別会を行っていたんだそう。現在はここで古民家カフェを営んでいらっしゃいます。)
そして、豊仙の蔵もそんな時代の流れの煽りを受けます。経営難に喘ぐ酒蔵を救済するため、政府は廃業を決めた酒蔵には補償金を支給することに。多くの中小の酒蔵はこの時に廃業し、東京などの都市部に土地を買ったり、別の業態へと転換したようです。豊仙の蔵は廃業はしませんでしたが、他の酒蔵と協業組合を作って共同で酒造業を営むことに。「豊仙」のブランドを残しつつ、豊間の酒蔵は酒販店としての営業という形で再スタートすることになりました。
ちょうどその頃、豊間からも多くの船員が漁に出ていた江名の港でも、北洋漁業の衰退に伴って船の数が減少。漁に出られなくなった乗組員たちは都市部に流出し、江名の船に乗る漁師が多く住んでいた豊間の集落も人口が減っていったそうです。半農半漁の豊間の生活スタイルも変化を余儀なくされ、昭和50年以降は豊間漁港にあった漁協も北隣の沼の内地区に移転。地区内に県道が開通したのを機に、豊間は半農半漁の集落から海水浴場と塩屋崎カントリークラブを軸にした観光地へと変わっていきました。
さて、そんな豊間地区から考える、今の時代に向けたヒント。今回も僕なりに考えてみました。
周辺の漁村同様に変化の激しい時代を生きてきた豊間地区。現在は2011年の震災の被害を経て防潮堤などのインフラも整備され、海岸には豊間の波を求めて多くのサーファーが再び集まるようになりました。新型コロナウイルスの影響など今でも変化の激しさは変わりませんが、豊かな自然環境はいつまでも変わらぬままです。
さて、不安定な世の中を生きるヒントを昔の海の暮らしに求めようというこの連載。3回目はいわき市平豊間地区でした。
次回も福島のどこかの海街でお会いしましょう!
<海プロ in ふくしまレポーター・久保田貴大>
<取材協力>
イベント名 | 昔の海の暮らしはどうだった?③ 〜いわき市豊間編〜 |