みなさんこんにちは、海と日本プロジェクトinふくしま、専任事務局員の小松です。
梅雨に入り、なんとなくジメジメとした日々が続きますが、本格的な夏シーズンの到来を前に、今一度、文化や歴史から、私たちと海の関わりを考えようということで、新コーナーがはじまります。その名も「磐城国 海の風土記」。福島県浜通りの南半分、かつて「磐城」と呼ばれた地域の海の伝承を考えていきます。
全部で10回。文章は、いわき市在住の郷土史研究家、江尻浩二郎さんによるものです。いわき市で開催されるアートプロジェクトなどではリサーチャーとして活躍され、市内の文化事業などでも幅広く活動されている江尻さんに、ふくしまと海の物語を紹介頂きます。じっくりとお読み下さい。
磐城国 海の風土記 vol.1
霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画
文章:江尻浩二郎
昨年(2017年)11月、国立民族学博物館(大阪府吹田市)が、津波災害を伝える石碑および寺社などを集積したデータベースサイトを開設しました。「日本列島に住むすべての人びとに、津波災害の記憶を自身の問題として受けとめてもらえるよう」企画されたものです。
津波の記憶を刻む文化遺産―寺社・石碑データベース―
http://sekihi.minpaku.ac.jp/
東日本大震災におけるいわき市の津波高をみると、最大は平豊間字下町の8.57m、最小は小名浜港の4.4mでした。同じ福島県である富岡町の21.1m、相馬市の14.5mに比べて小さいのは、津波の方向や、緩衝となる港湾施設があったことなど、さまざまな要件が重なった為と考えられています。今回はこの小名浜に残る、ある塚についてのお話です。
霊人塚(ぼうにんつか)。周辺の開発により取り残された小さな一区画で、鹿島神社(いわき市小名浜)の社地とされています。文献に当たってみると、四家文吉「磐城古代記全」明治29年(1896年)に以下のような記述が見つけられました。
元禄九年子の六月廿七日昼八ツ時より、大波押寄せ剰さへ嵐さへ強く四ッ倉迄浜々廻船破壊して、船人浦々にて都合二千四百五十人余相果て、同く七日まて海中より死骸を取上げ塚を築く、是を霊人塚《ぼうにんつか》と云ふ、今に四ッ倉、小名浜にありとかや。
少し読み易く改めると次のようになるでしょうか。
「元禄9年(1696年)6月27日14時頃から大波が押し寄せ、あまつさえ嵐が強く、四倉まで浜々の廻船を破壊して、船人が浦々で2450名余り亡くなった。同じく7日まで海中から死骸を取り上げ、塚を築いた。これを霊人塚という。現在、四倉と小名浜にあるとか。」
市内四倉の「霊人塚」については現在その所在が分からなくなっています。一方小名浜のものは、その後少なくとも一度、なんらかの手が加えられているようです。その経緯が刻まれた石碑がその傍らに建っていましたが、先の震災で倒壊してしまい、その後復旧されることなく現在に至っています。
無理に覗き込めば「延宝五年十月九日」「男女八十餘人漂死セリ」「菩薩ヲ安置シテ」「今ヤ新ニ都市計画サヘ行ハ」「大海嘯」「合葬シ之ヲ」などの文字が読み取れますが、その全貌を掴むことはできません。
さほど古いものではないことが分かりますので、行政資料等ですぐに確認できるかと思いましたが、探せど探せど記録がない。震災前にある郷土史家が調査に来ていたと聞き、その方を訪ねてみましたが「あれは新しい石碑ですよ」と明らかに軽んじており、碑文の書き写しなどは一切しておらず、従って内容もよく分からないということでした。
つまりこういうことです。
今から320年ほど前に大波があり、このあたりで2450名余りが亡くなった。人々は浜に流れ着くその遺体を集め、供養のために塚を築いた。その周辺が80年前に工場誘致の目的で開発され、塚にはなんらかの手が加えられると共に、その経緯が書かれた石碑が建てられた。その石碑は7年前の震災で倒壊し、今もって放置され、行政の記録には残っておらず、郷土史家にすら見向きもされず、その内容は分からなくなっている。
暗い気持ちにならざるを得ませんでしたが、興味を持ち始めて2年、ついにその記録を発見することができました。磐城市小・中学校長会『磐城市郷土誌資料集』にその書き写しがあったのです。旧字を新字に改め、句読点等が補ってありました。文中の「高山」と「隼人」は現在も残る字(地名)です。以下、その全文を掲載します。
霊人塚碑誌 今ヲ去ル二百五十九年前、時方ニ、延宝五年十月九日ノ夜、海嘯大イニ起リ、下川境ヨリ三崎・長崎ノ辺ニ於テ、男女八拾余人漂死セリ、後元禄九年六月二十七日ノ朝、降雨トナリシニ俄然暴風雨ト化シ、四倉マデノ間ニ弐千四百五十余ノ舟人、鋭意漁撈ニ従事セシ人々、再ビ漂歿ノ厄ニ遭ヒヌ。此ハ此、今ヲ去ル二百四十年ノ昔ナリシナリ。 当時有志ノ士相謀リ、天職ニ殉ジタル多数ノ英霊ヲ高山ニ合葬シ之ヲ名ツケテ霊人塚ト言ヒヌ。次イデ元文四年七月ニ至リ、信仏ノ念深キ人アリ、供養ノ為メ、斯地ニ地蔵菩薩ヲ安置シテ其冥福ヲ祈ルニ及ビ、善男善女ノ杖ヲ曳ク所トナリ、今ニ至ルマデ百九十七年ノ久シキニ弥リタリ。時移リ、星変リ、文化大イニ進ミ産業漸ク興リ、今ヤ新ニ都市計画サヘ行ハルルニ至リシカバ、此地域ヲモ用イザル可カラザルニ至ル、因リテ諸霊仏ヲ隼人ノ高丘ナル霊地ニ合祀シ、建碑シテ以テ永ヘニ雄魂ヲ弔フ。 是吾等ノ誠ヲ諭シ、崇仏信仰ノ実ヲ標スル所以ナリ。 昭和十年四月 元公立中学校教諭従六位石川虎之助撰文
この碑文から分かったことが4つあります。
①もともと「霊人塚」は「高山」にあった。つまり現「三菱ケミカル株式会社(旧日本化成株式会社、旧日本水素工業株式会社)」の敷地内である。 ②地蔵の建立は元文4年(1739年)7月であり、それも「高山」にあった。 ③昭和10年(1935年)ごろ、日本水素工業株式会社の工場建設のため移転となったが、移転先には「隼人」の「高丘」という場所(現在地)が選ばれた。 ④ここ「高丘」も元々霊地であった。
「高山」と「隼人」という地名は、字として現在も残っています。「霊人塚」に関する情報は「高山」と「高丘」が混乱していてよく分からなかったのですが、この碑文ですっきりしました。また、現在地の言い伝えとして「遺体はここに埋めたので掘れば出てくる」というものがありますが、「高丘」も元々霊地であったことを考えると納得できます。
最後に地蔵建立の元文4年(1739年)7月についてですが、磐城平藩領の「元文一揆」はその前年、元文3年(1738年)9月です。これは藩領全域から8万人が蜂起したとも言われる大一揆で、それで命を落としたものがあれば、その新盆は翌年の元文4年(旧暦ですから)7月ということになります。何か関係があるのかもしれません。これはもう少し調べてみたいと思います。
なんだか大袈裟なようですが、たかだか昭和10年建立の、(倒れてはいるものの)現存している石碑の内容が分かったというだけで、全く大した話じゃありません。ただ、こんなことになってしまう現状には、少なからぬ不安があります。
災害の記憶を自分ごととして感じることは「防災」の第一歩であると言っていいでしょう。先人の記憶が少しでも掘り起こされ、その地域に、そして広く一般に認知されていくことが期待されています。みなさんの周りにも、埋もれつつある、または既に埋もれてしまっている記録や遺跡がきっとあるはず。次なる災害に備え、ぜひシェアをして頂きたいと思います。
さて、この霊人塚は鹿島神社の社地にあると書きました。
小名浜には東に諏訪神社、西に鹿島神社が鎮座し、一帯を二分して篤く信仰されてきました。諏訪神社の氏子区域は旧米野村、旧中島村、旧中町村、旧岡小名村の約6000戸。鹿島神社は旧西町村の約2500戸。大雑把にいうと今の鹿島街道を境として東西に分かれていると考えてください。
その大変由緒ある鹿島神社が、今現在、旧西町村にありません。実は昭和43年、臨海工業地域の道路敷設ルートとなり、北西1.5kmほど離れた南富岡に移転してしまったのです。現在は一本の松と、本殿があったところに置かれた小さな石祠が残るのみとなっています。
小名浜の公害問題は根が深く、日本水素工業株式会社の進出以降、多くの工場が操業を開始すると、名にし負う「松之中」の松林は壊滅。大気汚染が酷い日には町の中でも目を開けていられなかった程でした。当時「吹松」にあった県立小名浜高校は環境悪化のために現在地「武城」へ移転。小名浜の水田ではコメは作れないとされ、鹿島街道より西のエリアでは補償を受けました。現在でも少額ですが補償されているそうです。
その負の歴史の記録は、少ないどころか皆無でして、詳しい事情を知ることはできません。公害問題の常ではありますが、記録は記録として残しておくべきだと考えます。ヒトは同じことを何度でも繰り返しますから。
吹松の地には、今も旧小名浜高校の校門跡が残ります。唯一の遺構ではないでしょうか。小名浜高校の移転は昭和42年。鹿島神社の移転は昭和43年。ちょうど公害の嵐が吹き荒れていた頃です。
鹿島神社の移転に関しても、詳しい事情を知る世代は皆他界し、残された方々も口が重いように感じます。私の想像では、敢えて新設道路のルートをまともにぶつけ、遷座の資金を捻出したということもあるのではないかと思うのですが、真相はいかがでしょうか。
そもそも高山とはどのような場所だったのでしょうか。大正末期に小此木忠七郎が調査した玫瑰(マイカイ)自生地の記録『磐城海岸ニ於ケル玫瑰自生地ノ現状』には、「小名浜町大字高山」が最大の自生地として報告されています。マイカイとハマナスは正確には同じではありませんが、ここではハマナスにこの漢字を当てているようです。以下、高山についての記述を引用しましょう。
沙漠ト耕地ノ間ニ連ナル沙丘ノ内側面ニ大群落ヲ散在シ、約一里ノ延長中、断続六ケ所アリ、最西端ハ八帆入川口ノ沙漠ニ達シ、字千畳敷ト称スル大群落ヲ終点トス。此自生地ハ模範的ノ型ヲ有シ保存最必要ナリ。
途切れるところもありましたが、延々4キロにも及ぶハマナスの群生です。自生地として模範的な状態であり、保存が最も必要だと小此木氏は強く訴えています。しかしこの主張も空しく、やがてこの大群落は砂浜もろとも、完全に埋め立てられてしまいました。
小名浜の工業化は明治時代の鈴木製塩所の進出に始まります。安政2年(1855年)静岡県に生まれた鈴木藤三郎は、氷砂糖の製造に成功し上京。日本製糖株式会社の創始後、東京府南葛飾郡砂村に本拠地として製塩業を起こしました。
彼は直接製塩に関する発明だけで33件の特許をとった人物で、新しい方法での試験工場として、次なる適地を探していました。小名浜字高山を選んだのは明治38年のことです。鈴木五郎『黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生』には、この地を選んだ理由が列挙されていました。大変興味深いので、新字に改め、全文引用しましょう。
①常磐線に沿うた太平洋沿岸の海水は、瀬戸内海に比ぶると概して濃厚である。
②此地方には石炭の産出が豊富であるから燃料が低廉に且つ便利に供給される。
③氏は沿岸十八里を踏査し、小名浜の如く南面して湾入した所が一ヶ所もなかったという。南面しているから乾燥が速い。
④鈴木氏の装置は風力を利用するのであるが、小名浜付近は平野遠く開けて西北方が遠く連山で囲まれている。風は連山を過ぎて乾燥しているから、製塩地として常磐線の沿道中に比すべきものがない。
⑤水産試験所の調査によると、小名浜は全国で晴の最も多い地方であるという。
小名浜としても、願ってもない大企業の進出でした。小野賢司町長が直接町民との交渉に当たり、明治38年8月までに43町歩の土地買収を完了。同年10月には工場の建設に着手しました。やがて現れた巨大な製塩工場の威容に、当時の小名浜衆は度肝を抜かれたといいます。
いわき地域学會『いわき浜紀行』に収録された小野大三「打瀬網の全盛時代」に、明治末期から大正初期にかけての以下の記述があります。
打瀬船が浜に並んでいる。延々と約六キロ余も続く白砂青松の小名浜である。はるか遠くに鈴木製塩所の煙突がそびえて見える。その辺に「千畳敷」という地名があったことは、もう知る人も少ないだろう。俗に風専寺と呼ばれる寺があり、流行病などで亡くなった人々を浜辺で火葬した。書くべきかどうかためらったが、供養の意味でここに記した次第である。
風専寺とは随分奇妙な名で、まさに俗称なのでしょうが、高山に寺があったなどということはこのエッセイ以外で記述を見たことがありません。私はこの風専寺と霊人塚に、何か関連はなかったのかと考えることがあります。
谷川健一『古代歌謡と南島歌謡:歌の源泉を求めて』には、古代人の生の理想と、それによって行われる行為について以下のような記述があります。少し長いですが、大変興味深いので引用してみましょう。
古代人の生の理想は長寿をまっとうしたあげく、自然死することであった。長寿者は神としてあがめられ、生きながら常世の神とみなされた。それに比べて、何かの事故で死んだ者は最も忌むべき死に方として嫌悪された。(中略)この異常死者は長寿をまっとうすることができなかった恨みを現世に残していく。(中略)南島では、事放死者が生者にわざわいを与えることのないようにさまざまな手段が講じられた。沖縄本島の国頭では溺死した水夫、やけどで死んだ老婆は逆さに埋葬した。再生しないための措置である。土地の人はこういうところを通過するには、かならず木の枝を折ってその上に投げねばならないとしていた。宮古群島の池間島では、生まれて二、三カ月のうちに死んだ子どもの身体はアクマと呼び、海岸べりの洞穴に投げ捨ててかえりみない。明治の末頃までは、頭に釘を打った。また斧や刀で切りきざみ、「二度と生まれてくるな」と言いながら、夜中に島の北の青籠《あおぐむい》と呼ばれる洞穴にそっともっていった。大神島でも溺死者や夭死者、伝染病で亡くなった者は墓地に入れなかった。
高山には霊人塚があり、そして風専寺がありました。それを知ったとき、私はこの大神島の溺死者、伝染病死者への行為を思わずにいられませんでした。高山は小名浜衆にとって、南島における海岸の洞窟のような、一種特別な異界だったのかもしれません。元文4年の地蔵像建立は、そのような死者たちへの(おそらく外部の人間からの)供養だとも考えられます。
長寿への希求と、異常死者への呪詛。
遠い過去の凄惨な記憶。埋められたおびただしい数の遺体。そこには、目を見張るハマナスの大群生がありました。時折、流行病で死んだ人を焼く煙が細く上ります。ハマにあった丘陵地「高山」の、なんと美しく、悲しく、恐ろしく、厳かな光景でしょうか。
参考文献
四家文吉『磐城古代記全』1896
鈴木五郎『黎明日本の一開拓者 父鈴木藤三郎の一生』1939
磐城市小・中学校長会『磐城市郷土誌資料集』1959
おやけこういち『小名浜・鉄道往来記』1994
いわき地域学會『いわき浜紀行』2002
谷川健一『古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて』2006
小名浜図書館『小名浜物語モノクロームの風景』2007
磐城国 海の風土記(全10回)
目次
vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画
vol.2 ウミガメ〜彼方とヒトをつなぐもの
vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性
vol.4 神白~ちはやぶる神の城から
vol.5 住吉~極東の海洋都市
vol.6 湯ノ岳~小さな霊峰の幽かな息づかい
vol.7 ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体
vol.8 剣~ハマの亡霊が魅入るもの
vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市
vol.10 クジラ~沖を行くものの世界(完結)
イベント名 | 霊人塚 |
場所 | 福島県いわき市小名浜隼人高丘 |