磐城国 海の風土記10(完結)「クジラ~沖を行くものの世界」

2018-11-7
海と日本PROJECT in ふくしま

 

いわき市の郷土史研究家、江尻浩二郎さんによる新連載「磐城国 海の風土記」。最終回は「クジラ」。太平洋を縦横無尽に移動するクジラ。クジラと私たちの関係から、磐城の歴史や文化を考える、壮大な最終論考です。

磐城国 海の風土記 vol.10

クジラ~沖を行くものの世界

文章:江尻浩二郎

 

『紙本著色磐城七浜捕鯨絵巻』、江戸期前半、磐城平藩を治めていた内藤家から、1994年、いわき市に寄贈されたものです。その名の通り、磐城七浜で繰り広げられる古式捕鯨を描いたものでした。当地方の捕鯨はそれまでほとんど言及されておらず、一般的にはほぼ「発見」と云っていいほどのインパクトがありました。

私は1989年に高校を卒業すると上京し、ほとんど帰省したこともなく、そのため私がその絵巻の存在を知ったのは「発見」からかなり遅れた2001年のことでした。九州北部を徘徊する中で、西海の捕鯨文化へ強く引き付けられた私は、憑りつかれたように各地の捕鯨を調べ始め、その延長線上で、思いもかけず故郷磐城のこの絵巻を知ったのです。

古式捕鯨の四大漁場と言われるのは、西海、土佐、紀伊、安房で、全くの西高東低。この絵巻の出現以前の文献に、東北地方の捕鯨の記述はありません。磐城でも行われていたという事実は大変な驚きでした。さらに、私が民俗文化として最も興味を持っていた「納屋場」と呼ばれる作業場は、あろうことか小名浜に描かれていたのです。信じられません。声が出るほど興奮しました。

この絵巻に、それまでの極々断片的な文献資料が関連付けられたことによって、現在、古式捕鯨の北限はまぎれもなく磐城ということになっています。私の中の海図は、これを機に一変したのです。

ちなみに鮎川(宮城県)が捕鯨の一大基地となるのは1906年、山口県下関市に本拠を置く東洋漁業の進出以降です。ノルウェー式砲殺を導入したもので、こちらは近代捕鯨に分類されます。そのほか、鮫(八戸市)、釜石なども同じく近代捕鯨であり、その歴史は100年余りということになります。

アイヌにも捕鯨文化がありましたが、これは海上で遭遇した際に偶発的に始まるもので、めったにない大事件であったようです。産業化もされていなかったため、これも古式捕鯨には含まれません。ただ、アイヌの捕鯨には、トリカブトの毒を塗った回転式の離頭銛を使うなど、独自の大変興味深い特徴があることはここに付記しておきましょう。

話を磐城に戻します。この捕鯨の歴史が、ほぼ語り伝えられず、忘却されていました。昭和47年(1972)から刊行された『いわき市史』には、磐城平藩の課税対象の表組に「鯨」の文字はあるものの、捕鯨についての記述は一切ありません。この絵巻が出て来なければ、未来永劫、誰も注目することがなかったのではないでしょうか。

 

『紙本著色磐城七浜捕鯨絵巻』より

  1. 四倉浜沖、銛を打ち込む
  2. 沼ノ内浜沖、親子の鯨を捕る
  3. 小名浜、鯨の解体

 

絵巻は、磐城七浜で捕鯨する一巻と、身分の高い人物が捕鯨を見覧する一巻の併せて二巻。いわき市では前者を「浜の巻」、後者を「海の巻」と呼びならわしているので、この稿でもそれに従いましょう。

「浜の巻」は縦81.0cm、幅1,079.0cm、「海の巻」は縦82.5cm、幅1,017.0cm1995年、いわき市立美術館で行われた特別公開の解説によると、幕府の御用絵師である狩野家に所属する者の筆と思われ、彩色や風景にその特徴が良く示されていると云います。しかし、大変残念なことに絵師の名も、制作年も、一切記されていません。

絵巻が表現している時代については、中に描かれている人物からの考察があります。頭巾を被る人物を内藤義概(風虎)とすると、藩主となった寛文10年(1670)から、死亡年である貞享2年(1685)までの時期。またこの人物を内藤義英(露沾)とすると、同人が元禄8年(1695)以後でなければ磐城には来ていないと考えて、死亡年である享保18年(1733)までの時期と絞り込むことができます。

いずれにせよ、この絵巻は、内藤家時代の磐城での漁村の生活を伺い知ることができる「唯一無二の、目で見る記録」であります。また一般論ですが、我が国の漁村は文献資料が少なく、いわゆる「歴史学」で語られることが乏しい。その意味でも大変な「事件」であったと云っていいでしょう。

 

古式捕鯨とは何か

それではここで、山下渉登『捕鯨』に沿って古式捕鯨の概要を見ておきましょう。

興味深いことに、古今東西、クジラを獲る方法というのは基本的には同じです。鯨が姿を現すと、綱をつけた銛を鯨体に打ち込みます。こうすることで鯨がどんなに逃げても、深く潜っても、見失う事はありません。船を曳かせ、弱ったところで、両刃の剣で内臓をえぐり、とどめを刺します。

これを「突取式」と云います。そのほか、日本で独自に開発された「網取式」という方法がありますが、これは、まず網にかけて鯨の動きを鈍らせ、銛を打ち込むのを容易にしただけで、直接網で獲るわけではなく、やはり基本的な考え方は同じだと云えるでしょう。

多くの鯨は死ぬと沈んでしまいます。せっかく仕留めても運搬が難しく、したがって、死んでも沈まないセミ鯨やマッコウ鯨が最初の捕獲対象となりました。

17世紀、日本ではこの不都合を解消するために「物双(もっそう)」という方法を考えました。仕留めた鯨を両側から船で挟んで、鯨体と船を筏に組んで運ぶ方法です。これによって捕獲できる鯨種が広がり、当時としては世界で唯一、ザトウ鯨やナガス鯨も捕獲していました。以後、捕鯨が産業として大いに発展していくことになります。

古い記録に見る限り、伊勢湾周辺では、15世紀半ばから捕鯨が永続的に行われていたようです。それが元亀年間(15701573)には産業として体をなし始め、その後、海に生きるものたちの広範な行動範囲と交流の深さによって、紀州、三浦、安房、西海など各地に伝播していきました。当時の捕獲法はシンプルに銛で突く「突取式」でしたが、1677年、紀州太地の太地角右衛門(覚右衛門)頼治が網を併用した「網取式」を開発すると、飛躍的に捕獲率が高まります。

「網取法」の出現後も、時期や鯨種によっては「突取式」が用いられました。コク鯨は気性が荒く賢いため、追い立てる音にも驚かず、網代にも近づかない。たとえ網にかかっても暴れるので銛のみで獲ったと云います。また、北へ向かう春季の鯨は盛りがついて気性が荒いのでこれもやはり銛で獲る。地域で言えば、安房周辺ではツチ鯨を狙いますが、深く潜るため網が使えず、四大漁場で唯一「突取式」のみで操業していました。

次に捕獲後のことを簡単に見ておきましょう。鯨はなにしろ巨大ですから、肉や脂などが一度に大量に獲得できます。江戸時代には俗に「鯨一頭、七浦潤う」といわれるほどの収益がありました。

享和2年(1802)の鯨組の経営について書かれている『前目勝本鯨組永続鑑』によると、当時は一つの鯨組で800人以上も働いていたようです。シーズン前には納屋の建て直し、竈作り、そのほか、船、網、樽などの新造や修理。シーズンが始まれば、鯨を引き上げるための人手や解体の職人。近在からの日雇いも多く、まさに近世最大の産業でした。

また、鯨漁に関わるものたちの精神性というものも考えなければいけないでしょう。鯨がやってくると法螺貝を吹き、狼煙を上げ、船団を指揮する者は両手に采配をもって「下知」し、寒風吹きすさぶ冬の海を、ふんどし姿の水主が勢子船を大変なスピードで漕ぎ、銛を次々に打ち込んでいく。その様は正に「戦」そのものではなかったでしょうか。

当時その様子を見聞した者は口々に「戦場の将たるがごと」「極めて偉観たり」「一、二の銛の前後を争ふは軍船に異ならず」「刺子、水主の者の動き、誠に戦国の人の如し」などと言葉を残しています。正に勇壮、雄渾。人類史上最大の狩猟は、そのことがもっとも際立つ、至極激烈な人間の生業でした。

鯨組があった浦のほとんどは、農地に恵まれず、海に生きる以外にない純漁村が多かったという指摘があります。では彼らはどのような民だったのでしょうか。天正6年(1588)豊臣秀吉が発した「海賊禁止令」では「国々浦々船頭、猟師、いつれも船つかひ候もの」が、すべて海賊扱いされています。海の民はそのような「定住性のなさ」を本来的に持っていたのでしょう。農に従事することは「一所懸命」を旨としますが、海に従事することは「他所懸命」や「多所懸命」にもなる。それは農の民と海の民の決定的な違いなのでしょう。

 

様々な捕鯨図絵

  1. 「古式捕鯨蒔絵、太地」、出典:ウィキメディア・コモンズ
  2. 「千絵の海 五島鯨突」葛飾北斎画、出典:ウィキメディア・コモンズ
  3. 「張州雑志」鯨捕り之図、出典:『歴史と文化探訪日本人とくじら』小松正之

 

再び『紙本著色磐城七浜捕鯨絵巻』を見てみましょう。

まず第一に最も気になる点は、漁法が「突取式」であるということです。この時期、既に全国的には「網取式」が主流となっていました。前述のように、季節、鯨種、地域によって「突取式」を行っていたところもありますので、ひとつのヒントになるはずです。

ところが、この鯨種がはっきりしない。アクアマリンふくしま(公益財団法人ふくしま海洋科学館)の柳沢践夫氏はその論考「福島県の鯨」の中で「ヒゲクジラ類と思われるものの、今一つ種を特定する特徴が見い出せない」と指摘しています。ヒゲクジラ類で「突取式」を用いられたのは、前述のようにコク鯨ですが、これはコク鯨なのでしょうか。

次に船体の色。鯨船というのは熊野地方の極彩色を筆頭に、きらびやかに彩色されることが多いのですが、この絵巻に描かれている船は、船首(みよし)や船底が黒く塗られている程度で大変質素です。これもひとつのヒントになるでしょう。

続いて捕獲した鯨を浜につける向きです。この絵巻では横につけています。九州の鯨組はどこも頭からハマにつけ、紀州や土佐では尾からつけます。横につける例は大変少ないのですが、例えば、尾張藩士内藤正彦による地誌『張州雑誌』(17721788)に描かれた師崎の捕鯨では横からつけています。同誌の漁法は「突取式」で、彩色も船首のみ(赤と黒)であり、もっとも磐城と類似点があるように思います。

 

内藤家文書に見る捕鯨

その他、小野浩『磐城の古式捕鯨(二)磐城七浜捕鯨絵巻から』を参考に、内藤家の文書からの論点を整理しておきましょう。

内藤家は前領地の佐貫藩時代、房州捕鯨の根拠地である安房勝山を支配していました。勝山の突取式捕鯨は、慶長年間(15961615)から始まっていたとされています。この点から同氏は、安房勝山とのつながりを念頭に置いているようです。

内藤家が鯨漁に課した税の最も古い記録は正保元年(1644)。その額は金802615文でした。税が十分の一なので800両の利益があったことになります。万治2年(1659)には261586文と記載がありますが、その後は記録がありません。

慶安4年(1651)、内藤忠興が「鯨突候節定」という捕鯨をする際のルールを決め、これは元文4年(1739)までの89年間有効でした。内容は、鯨曳舟の要請、役人への注進、他国の者に対する盗みの禁止などで、署名は小名組、豊間組、四倉組、久組の4組です。この4組は絵巻に描かれた範囲と合致し、この絵巻が表現している時期は、この89年間であると考えることができそうです。

寛文10年(1670年)、磐城平藩の葛山為篤によって著された地誌『磐城風土記』には「五月より九月に至るまで鰹魚を釣り、漁船競い来ってその数を知らず。多くこれ他国より来る。この時に当たり浜畔の富めること言うに堪えざるなり」とあります。「多くこれ他国より来る」中に鯨漁を考えるものも当然いたでしょう。

内藤義概(風虎)が編ませた俳諧選句集『桜川』は、大阪の俳人松山玖也を磐城に招いて編ませた全国レベルの選句集で、延宝2年(1674)年に成ったものです。全7036句のうち、冬の季題である「初鯨」は85句。そのうち磐城のものと思われるのは46句で、寛文6年から8年(16661668)の句を見ると、鯨の解体の様子や入札による取引の様子などに触れられています。

延宝六年(1678)、中之作にて「初鯨」献上の褒美として紀州の弥惣右衛門と田名部の吉左衛門に籾五俵を与えています。磐城沿岸で獲り、中之作浜で解体したものでしょうか。先進地紀州のほか、下北地方の田名部の名前もあるところが気になります。この時期既に、北国でも捕鯨に携わる組があり、しかも彼らは磐城沿岸で操業している。南部藩にはこの記録が残ってるのでしょうか。大変興味深いです。

最後に、同書には、明治36年(1903)市内江名町の近藤弥作氏が作成したという系統図から、文章が一部、抜き書きされています。

氏ハ一女ナリ嗣子ヲ傳左衛門ト云ヒリ傳左衛門ハ紀州大地ノ人大地覚左衛門ノ子ナリ傳左衛門ハ宝永五年(一七〇八)ニ来レリ氏ノ古郷ハ捕鯨猟ニ従事タルヲ以テ氏モ又江名ニ来リテヨリ捕鯨猟ニ従事正徳五年迄八年間ニ幸ヒニモ巨額ナ利徳ヲ得タリト依テ奉行所ヨリ注意トシテ時の役人梅原九左衛門殿藤堂兵左衛門殿ノ二役下リ居レリト(是レ伊勢領主藤堂和泉守ノ役人ナリ)依テ時ノ御用金トシテ(御臺所金ニトアル)金八百両併セテ米七百五十俵ヲ献納トナリ為メニ傳左衛門正徳年内大小刀ノ御免トナリ此時故アッテ佐藤姓ヲ近藤ト改メタリト

この「覚左衛門」は「覚右衛門」の誤りでしょう。紀州太地の覚右衛門家から江名に養子に入った傳左衛門なる人物が、1708年からの8年間で捕鯨により巨利を得たとあります。「網取式」を発明した大変な名家から養子に入ったというのです。このとき江名はすでに湯長谷藩領となっておりますが、磐城平藩内藤家と湯長谷藩内藤家は同族であることも指摘しておきましょう。磐城地方の古式捕鯨を考える上での第一級史料ですが、残念ながらこの文書は現在所在不明となっているようです。

小野武夫博士還暦記念論文集刊行会編『日本農業経済史研究』に収録されている、伊豆川浅吉「陸前捕鯨史の一駒」には、「福島県石城郡江名浜村、同地の近藤伝右衛門なる者捕鯨業を経営したる当時(安永四年〈一七七五〉) の大福帳」の存在が示されていますが、これも現在、その所在が分かりません。

その他、捕鯨用の銛3点、鯨骨の存在に触れられていますが、これも所在不明です。

 

石碑に刻まれた栄華


今回新たに資料を読み込む中で、小島孝夫編『クジラと日本人の物語-沿岸捕鯨再考-』の中に「江名の諏訪神社には、伝右衛門を称える石碑が建っている」という記述を見つけました。驚いてこれを調査に行ってみると、確かに鳥居横に「餘慶之碑」という石碑があります。明治37年、前述の近藤家当主、近藤彌作氏によって建立されたもので、近藤家の由来を漢文で記したものでした。以下、捕鯨に関する部分を抜粋してみましょう。

杢兵衛養太地覚右衛門子傳左衛門為嗣覚右衛門紀伊東牟婁郡太地邨人業捕鯨以故傳左衛門亦習其業遂獲巨利屢献金穀於藩矦内藤氏矦為許佩刀且賜三口俸及章服改姓近藤氏乃請為醸戸新築醸庫大修邸宅矦聞之賜役夫千名以助其工事有享保十年傳左衛門以安永九年歿年九十有七

これにより新たに分かったことが2つあります。ひとつは、享保10年(1725)傳左衛門が醸庫を新築し邸宅を修復するに際し、内藤家が1000人分の人夫を出したこと。もうひとつは、傳左衛門が安永9年(1780)に97歳で没したこと。逆算すると傳左衛門の生年は貞享元年(1684)であり、太地覚右衛門頼治が「網取式」を発明した10年後に生まれていることになります。初代「覚右衛門」である頼治の子である可能性が出てきました。近藤家(当時は佐藤家)に養子として入ったのは25歳の時です。

ちなみに「傳左衛門」は現在も近藤家の名跡(代々継承される個人名)となっています。この太地から養子に入った傳左衛門が初代「傳左衛門」だということも分かりました。

また、前述のように、江名村は当時湯長谷藩領ですので、文中の「内藤矦」は湯長谷藩内藤家ということになります。今後同藩の資料から、捕鯨に関するものが出てくることを期待します。


その後、近藤家現当主に聞き取りをしたところ、早銛2本と剣1本、そして鯨骨を、ふくしま海洋科学館(アクアマリン)に貸与しているとの情報を得ました。さっそく問い合わせてみると、4年ほど前まで「うおのぞき水族館」に展示していたものの、同所閉鎖となったため「返却したと思います」という回答。展示していたのは早銛1本と剣1本だけだったと云います。

もう一度近藤家に問い合わせると「確かに返却の申し入れがあったが辞退した」とのこと。震災で蔵を解体してしまったので、返却されても保管する場所がないというのがその理由でした。「その後も有効活用していただいているものと認識している」とのことで、証言は食い違っており、その後も各方面に問い合わせを続けておりますが、未だにその所在を突き止めることができません。

大変貴重な史料である早銛と剣、そして鯨骨の所在が現在不明となっています。最悪の場合、蔵の解体の際、諸共に廃棄されてしまった可能性もある。古式捕鯨の最北拠点を伝える、日本捕鯨史の第一級史料と考えますが、非常に悲しい事態です。

その他、母屋から蔵への動線には、鯨骨を連ねて作られた柵があったそうです。残念ながら、それも蔵と共に取り壊され、写真などの記録は一切残されていません。

 

近藤家の捕鯨時代

  1. 近藤家の由来を伝える「餘慶之碑」
  2. 文中に見える「捕鯨」の文字
  3. 江名真徳院、近藤家の墓所

 

さて、一通り見てきました。ここからはもう少し大きな視野に立って考えてみましょう。

前述のように内藤家は、前領地佐貫藩時代に安房勝山を支配していました。これを根拠に、磐城の捕鯨を安房勝山とのつながりで論じることが大勢となっており、「突取式」であるなどの類似点も踏まえ、最も無難な説となっているようです。これに異を唱えるわけではありませんが、私には少し思うところがあるのです。

山下渉登『捕鯨』で指摘されているように、われわれは近世について考える時、ややもすると藩という「越えがたい」境界と、稲作中心の動きのない社会を想定しがちです。しかし、海に生きる人びとにとって、当時「越えがたい」境界は鎖国令だけだったのではないでしょうか。沖の回廊の往来は、われわれが考える以上に自由に行なわれていたように思います。

鯨漁が始まるずっと前から、紀州を一つの拠点としながら、西海から三陸まで、あるいはより北方まで、海の生業は広範に繋がりを持っていました。紀州の旅網が五島に進出し、各国の鰹船が磐城の沖に押し寄せていたのです。鯨漁についても、太地に現存する寛文4年(1664)の定書は、実は肥前平戸藩領の鯨組が取り交わしたものではないかという考察があります。

その他、紀州から西海までの間は、熊野の羽指(海に飛び込み、クジラによじ登り、鼻の穴に切り込みを入れて綱を通す者)、兵庫の船大工、田島の網工など、その人材と技術で盛んな交流があったことが分かっています。

磐城にも鯨組がありました。納屋場がありました。多くの物や技術が必要です。そのためには人の移動と交流が不可欠でした。磐城だけが孤立しているはずはないのです。文字に残されていないそのものたちは、一体どこから来たのでしょうか。

安房かもしれません。紀州かもしれません。土佐かもしれませんし、瀬戸内の浦々、そして西海との交流もあったかもしれないと思うのです。さらに、史料は不十分なものの、前述のように、下北地方田名部の人々も、磐城沿岸まで来て操業しています。文字だけでは、沖を行くものの世界は分からないのです。

そしてもうひとつ考えなければいけないことがあります。磐城の鯨組がなくなったとき、彼らはどこへ去ったのでしょうか。そしてそのことは、文化の伝播という観点から、どのような意義を持ち得るのでしょうか。私の興味は尽きません。

 

海の回廊を行くもの

私が熊本県北部にいた時のことです。駅前で数名の方が集まって賑やかに話していました。少し離れてそれを聞いていた私は、その話しぶりで彼らが磐城の人間だと判断しました。なぜこんなところにいるのかと思いながら近づいてみると、ガヤガヤと話している雰囲気は確かに磐城弁に似ているのですが、言葉自体は全くの九州弁なのです。不思議な体験でした。その後いろいろ調べてみると、例の有名なアクセント分布の地図に行き当たりました。

その地図では、福島県を中心とした南東北の一部と、九州の中北部のみが「無アクセント」地帯とされています。要するに高低アクセントがない。平板に話すということなのです。大変面白いですが、これだけでは方言周圏論的に語ることもできますので、もう少し別の話も挙げておきましょう。

このアクセント分布と奇妙な類似を見せるものに、装飾古墳(とりわけ彩色されているもの)の分布があります。これは九州地方と、茨城県から福島県の沿岸部に集中しているのです。古代、九州からこの地に多くの開拓民が移住したという説がありますが、はっきりしたことは分かっていません。考古学者の大塚初重氏は両者の間に全くの空白地帯があるためこの文化と技術を持った人々は海で移動したと考えるのが自然だろうと指摘しています。ひたちなか市に虎塚古墳、いわき市に中田横穴、そして双葉町に清戸迫横穴。いずれも国の史跡となっている大変重要な装飾古墳です。

また、江戸後期、古式捕鯨が最も盛んであった西海の平戸島には「ジャンガラ」という芸能が今に伝わっており、念仏踊りの一種として国の重要無形民俗文化財に指定されています。念仏踊りはあらゆる地域に残り、踊りの形態や音楽性は全く違うものとなっていますが、この呼称は磐城の「じゃんがら」と奇妙な一致を見せてはいないでしょうか。また五島にも「チャンココ」という芸能があり、これも響きとして「じゃんがら」に通じるものを感じます。

連載第五回「住吉」で触れたように、延喜式に記載された7つの住吉神社の分布も、西の果てに壱岐、東の果てに小名浜がありました。平安の昔でも、海上では大いに人や物の行き来があったことでしょう。

 

西海とのつながり

  1. 日本語のアクセント分布、出典:ウィキメディア・コモンズ
  2. 国指定史跡「中田横穴」の内部
  3. 平戸のジャンガラ

 

西舘好子『小名浜ストーリー』には、戦後、小名浜竹町に店を構えた「カネジョ」という呉服屋の話が出てきます。大変印象的なので以下に引用してみましょう。

オンチャンは、京や大阪に高級品を仕入れにも出かけて行った。
面白いことに、そういう時はけっして汽車を使わなかった。
先日より神仏に祈って、海から出発するのである。
「まるで遣唐使だなあ」
睦郎はからかうが、オンチャンは本気で、日本の海が一番安全で船は早いと思っているようであった。

カネジョは、運慶丸という船で北洋に出ていた船主が、思うことあって船を売り払い、転業したものだそうです。もともと海に暮らす人だったというのもあるでしょうが、このオンチャンの感覚は非常に面白い。実際、この列島の長い歴史の中で見れば、ほんのつい最近まで、一番安全で早い交通手段は「船」だったのです。睦郎の「まるで遣唐使だなあ」はなんともいいセリフ。極東の住吉神社がある小名浜で遣唐使に例えるのは言い得て妙であり、私にとっては予言のようでもあります。

『磐城七浜捕鯨絵巻』の話に戻りましょう。今回、磐城の捕鯨に関するいくつかのテクストを読む中で、この絵巻の寄贈が佐藤孝徳さんの尽力であることが分かりました。孝徳さんはその存在を知って内藤家に日参し、とうとういわき市への寄贈に漕ぎつけたのだそうです。

同氏は市内江名町の漁師の家に生まれ、明治大学文学部史学科で学びました。その後帰郷し、家業を営みながら、歴史家として大変精力的な活動をされた方です。震災の前年、酔って帰った深夜、自宅で転倒してしまい急逝。私は残念ながら直接お会いしたことがなく、ただただ、その素晴らしい仕事の恩恵にあずかっているのみです。

佐藤孝徳さんがいなければ、磐城沿岸の歴史や民俗は大変乏しいものになっていたでしょう。中でも膨大な民話を採集した『昔あったんだっち-磐城七浜昔話』、沿岸の食文化をとりあげた『ふるさといわきの味あれこれ』は白眉中の白眉で、まさにそれが失われていく最期の最期に掬い取られたハマの至宝です。

『ふるさといわきの味あれこれ』は朝日新聞福島版に連載されたものを後にまとめたもので、小野一雄さんとの共著になっています。小野一雄さんは小名浜の水産加工業の家に生まれた方で、こちらも歴史家として現在も大変素晴らしい活動をされています。この冊子のオモテの見返しには『磐城七浜捕鯨絵巻』の江名の図、ウラの見返しには小名浜の図が使われており、私にはお二人の故郷に対する、そして海に対する矜持が感じられ、胸を打つものがあります。

覚えている方も多いでしょうが、震災で取り壊されるまで、小名浜の旧市営魚市場付近にあった冷凍倉庫の壁面には、この『磐城七浜捕鯨絵巻』の小名浜の部分が大きく描かれていました。それまで「歴史学」ではほとんど扱われてこなかったハマの民が、誇らしげにそれを見上げ、自らを語っていました。

市内久之浜にある菓匠「梅月」にも、この絵巻の久之浜の部分が、額に入れられて飾られています。近世の自分たちのハマの様子が、ここまで克明に描かれているものはなかったのです。私が初めて「梅月」を訪れ、久之浜の話を伺った時、まちづくりの活動に長く携わっていた片寄清次さんは、まず始めに、この額の話をしてくださいました。忘れられない思い出です。

現在、この絵巻はいわき市教育委員会が所蔵しています。大変残念なことですが、私たち一般市民は今、この全容にアクセスすることができません。常設展示はされておらず、二巻全福を収めた刊行物は一切ありません。過去に企画展を行った際も図録は作られず、ほぼ唯一の報告である前述の小野浩『磐城の古式捕鯨 磐城七浜捕鯨絵巻から』とその続編にも、モノクロの部分写真が数点掲載されているのみで、そのサイズも小さく、細やかな部分を検証することは全く不可能です。

この絵巻に歴史学的、美術的価値がさほど認められていないのは、それが市指定文化財でしかないことで分かります。そこに異議を申し立てるものではありません。ただ、この絵巻は、久之浜から小名浜西町の人々にとって、一般的な物差しでは測り得ない、巨大な価値があると思うのです。

歴史学は文献と考古資料の上に成り立ちます。古来、自らを記録することに忙しかったのは稲作農耕に携わった人々、およびその社会の上層にある武家と公家だったでしょう。山の民と海の民、そのほか漂泊の民が歴史で語られないのは、非常に簡単に言ってしまうと「文献がない」からです。

だからこそ、この絵巻の出現が感動的なのです。冷凍倉庫の壁面いっぱいに描かれてしまうのです。津波ですべてが流されてしまった菓子屋の店内に誇らしげに飾られているのです。その感覚は、内陸の、平地の、しかも御城下にある官公庁には、なかなか伝わりにくいのかもしれません。

現在、二巻のうち、沿岸の様子を描いた「浜の巻」は、明治大学博物館で2014年に開催された特別展「藩領と江戸藩邸」の図録でその全幅をカラーで見ることができます。現地名との突き合せも表記されており、その点は大変に素晴らしいのですが、紙幅の関係で非常にサイズが小さく、大いに不満が残ります。「海の巻」に関しては、前掲の小野浩『磐城の古式捕鯨 磐城七浜捕鯨絵巻から』で一部をモノクロで確認できるのみ。私は未だにその全容を目にしたことがありません。

今回のリサーチの中で、和歌山県太地町にある「くじら博物館」のデジタルアーカイブが大変素晴らしく感銘を受けました。数ある捕鯨絵巻をネット上に全幅掲載し、軽快なズーム操作で極細部まで確認することができるのです。頻繁な公開や冊子の印刷は困難でも、このような形なら実現可能性が高いのではないでしょうか。

内藤家文書は「最大級で最良質の藩政史料」と云われております。昭和38年に内藤家から明治大学に移管されました。明治大学は文部省から助成を受け、購入という形を取っています。同文書は、明治大学の学術資料としてのみならず国民共有の文化遺産なのです。

内藤家は受け取った代金のうち、古文書整理に費やした実費を差し引いた残りの全てを、育英資金として延岡市に寄付しました。全く敬服いたします。

当時の当主、内藤政道氏は「大学のような恒久的機関で永久保存し、かつ明治大学関係者以外の閲覧にも供してほしい」と明治大学側に伝えたそうです。「とりわけ延岡市民、そして福島県いわき市民には閲覧の便宜を図っていただきたい」と云い添えられました。その心遣いに涙がこぼれる思いです。

この絵巻をいわき市に寄贈した際も、当然そのような意志は伝えられたのではないでしょうか。ぜひいわき市は、一般市民からの十分なアクセスが可能になる方法を検討していただきたいと思います。

 

どこまでが此処なのか

  1. 富山県『環日本海図・東アジア諸国図』同様に回転させた日本地図
  2. 日本をとりまく「5つの内海」世界、出典:『日本とは何か』網野善彦
  3. 鯨の回遊路に囲まれた日本列島、出典:『鯨と捕鯨の文化史』森田勝昭

 

それでは最後に、磐城国を取り巻く状況を俯瞰し、この稿を終わりましょう。

富山県が発行したユニークな地図をご存知でしょうか。『環日本海図・東アジア諸国図』と題されたそれは、大陸諸国に対し日本の重心が富山県付近にあることを示すため、それが最も強調される角度に回転させ、切り取られた地図です。俗に「お隣中国では」などとよく云いますが、お隣が中国なのは九州西岸と南西諸島の人々のみです。西日本の隣は朝鮮半島ですし、東日本の隣は圧倒的にロシアです。いかに私たちが普段、大きな偏見を持って地図を眺めているのかということが分かります。

もうひとつ、この地図を眺めていると、福島県や茨城県あたりは、大陸から最も遠いように思えないでしょうか。

うみラボでお世話になっているアクアマリンの獣医、富原聖一先生と船上で「なぜ常磐モノのヒラメは成長が早いのか」という話になったことがあります。富原先生は「はっきりしたことは分からないけれど」とした上で「このへんは青森なんかより水温が低いんだよね」という話をしてくれました。対馬海流(日本海側を北上する暖流)が津軽海峡を通って南下して来るのだそうです。これは大変興味深い話で、歴史学者であり、いわき総合図書館館長でもある夏井芳徳さんがよく話される「このあたりの海路開発が最も遅れた」という話にも繋がるのではないかと思うのです。

夏井氏は、福島藝術計画の2017年のインタビューの中で「いわきはシルクロードの最果てである」という魅力的な箴言を述べています。シルクロードの文化は北九州あたりに入り、関西まで伝播し、そこから京都や大阪を中心に全国に伝わりました。海運を通じて日本海側に伝わり、津軽海峡を経て、八戸や宮古のあたりにまで伝わっています。一方、太平洋側は、江戸や銚子のあたりまで到達しますが、その先はあまり伝播せず、茨城、福島、宮城のあたりが最も遅れたと云うのです。

太平洋側で、銚子から先の伝播が遅れたのは、大変な難所である鹿島灘があるためですが、この「シルクロード最果て」説は、磐城を考える補助線として実に魅力的であり、かつ非常に尖っていて面白い。

さらに、網野善彦『日本とは何か』の冒頭に挙げられた地図を見てみましょう。網野氏はこの大きなテーマを語るに際し、まずこの「五つの巨大な内海」を提示しました。北からいわゆる①ベーリング海②オホーツク海③日本海④東シナ海⑤南シナ海です。

さらに「日本列島の東南岸、南西諸島、台湾、フィリッピン群島を結ぶ島々と、伊豆諸島、小笠原諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島に固まれた広大なフィリッピン海」と列挙し、「日本列島の社会を理解するためには、五つの内海をはじめ、少なくともこのくらいの広い視野を持っていなければならない」とし、「しかしそれは陸の支配の論理ではなく、海そのものの特質を十二分に視界に入れた見方に立つ必要がある」と注意を喚起しています。

この大きな繋がりの中で、磐城というものを考える必要があるでしょう。鯨の回遊路ひとつ考えてみても、私たちはそのスケールをどれほど感じることができるでしょうか。明和2年(1765)、銚子に向かった小名浜の廻船「住吉丸」は嵐に遭い、遠く安南国(ベトナム)まで漂流しています。震災で流失した小名浜港湾事務所の大型ブイは、20131月、ハワイ州カウアイ郡で発見されました。このような広がりを常に念頭に置くことで、また違った世界が見えてくるように思います。

そしてここまで思考が広がったとき、もう私は「どこまでが此処なのか」分からなくなっているのです。それは「どこまでが今なのか」、また「どこまでが私なのか」という問いにも繋がるでしょう。この10回の連載で私が云いたかったのは、結局のところ、この問いだけだったようにも思います。

長くなりました。海と日本inふくしま、磐城国、海の風土記、これにて語り納めです。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

参考文献

いわき市史編さん委員会『いわき市史第九巻近世資料』1972
いわき市史編さん委員会『いわき市史第二巻近世』1975
草野日出雄『写真で綴る実伝・いわきの漁民』1978
太地五郎『熊野太地浦捕鯨乃話』1982
西舘好子『小名浜ストーリー』1988
いわき地域学會『藤原川流域紀行』1991
大林太良ほか『海と列島文化10 海から見た日本文化』1992
森田勝昭『鯨と捕鯨の文化史』1994
小野浩『磐城の古式捕鯨 磐城七浜捕鯨絵巻から』1997
小野浩『磐城の古式捕鯨(二)磐城七浜捕鯨絵巻から』1997
網野善彦『「日本」とは何か』2000
開虎山観音寺浄光院『開虎山観音寺浄光院』2001
中園成生『くじら取りの系譜』2001
柳沢践夫「福島県の鯨」うえいぶ編集委員会編『うえいぶ』第27 2002
いわき地域学會『いわき浜紀行』2002
山下渉登『ものと人間の文化史 捕鯨2004
小松正之『歴史と文化探訪 日本人とくじら』2007
佐藤孝徳、小野一雄『ふるさといわきの味あれこれ』2008
小島孝夫編『クジラと日本人の物語-沿岸捕鯨再考-』2009
小泉武夫『鯨は国を助く』2010
大塚初重『装飾古墳の世界をさぐる』2016
ミツカン水の文化センター『水の文化』54 和船が運んだ文化 2016
いわき市教育委員会『いわき市の文化財』2017

参考サイト
日々の新聞社『日々の新聞』第175
夕刊デイリーweb『内藤家文書は最大級・最良質の藩政史料』2012年3月8日
福島藝術計画 × ART SUPPORT TOHOKU – TOKYO公式サイト『いわきはシルクロードの最果てである』201752

 

<vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市

 

磐城国 海の風土記(全10回)

目次

vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画

vol.2 ウミガメ〜彼方とヒトをつなぐもの

vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性

vol.4 神白~ちはやぶる神の城から

vol.5 住吉~極東の海洋都市

vol.6 湯ノ岳~小さな霊峰の幽かな息づかい

vol.7 ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体

vol.8 剣~ハマの亡霊が魅入るもの

vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市

vol.10 クジラ~沖を行くものの世界(完結)

 

イベント名磐城と捕鯨
  • 「磐城国 海の風土記10(完結)「クジラ~沖を行くものの世界」」
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