レポート
2018.07.03

磐城国 海の風土記2「ウミガメ〜彼方とヒトをつなぐもの」

 

みなさんこんにちは、海と日本プロジェクトinふくしま、専任事務局員の小松です。前回大きな反響を頂きました、新連載「磐城国 海の風土記」。今回は第2回目。海の使者「ウミガメ」についての論考です。いわき市の郷土史研究家、江尻浩二郎さんの寄稿。今回もじっくりとご覧ください。

 

磐城国 海の風土記 vol.2

ウミガメ~彼方とヒトをつなぐもの

文章:江尻浩二郎

 

環境省自然観光局・日本ウミガメ協議会『ウミガメ保護ハンドブック』(2007)によれば、ウミガメ類は世界に7種生息し、日本には5種、そのうちアカウミガメ、アオウミガメ、タイマイの3種が日本の砂浜で産卵するとされています。圧倒的に産卵数が多いのはアカウミガメで、日本は北太平洋で唯一の産卵地でもあり、その保護に大きな責任を負う立場にあると云えるでしょう。

さて、アカウミガメの産卵の中心は西日本の太平洋側(特に九州南部)ですが、その北限は、一般的には福島県いわき市沿岸とされています。(2007年に宮城県山元町で確認され、最北記録自体は更新されましたが、その後観測されず、現時点ではイレギュラーな扱いとなっているようです。)これは黒潮の流れ、海水温などを考えても十分納得できるもので、やはり磐城は潮目の国なのでしょう。

四方を海に囲まれたわが国では、古来、ヒトはウミガメと多様な関わりを持ってきました。食用はその中でも最も原始的な関わり方ですが、今日では卵を食べる地域はなく、肉の食用も一部の地域を除いて極めて稀になっています。

タイマイの甲の鱗板を加工する鼈甲(べっこう)細工はわが国独自の伝統的な文化であり、また「亀卜(きぼく)」という神意を占う祭祀ではウミガメ類の甲羅が使われてきました。平成の「大嘗祭(だいじょうさい)」ではアオウミガメが使用され、また来年行われる新元号の「大嘗祭」でもアオウミガメが使用される旨、発表がありました。

ヒトとウミガメの関わりを語る際よく取り上げられるものに、浦島太郎の物語があります。浦嶋子伝説が原話とされ、古くは『日本書紀』『万葉集』『丹波国風土記逸文』等にその記述が見られますが、それらは名称や設定が異なり、報恩の要素も欠け、行き先は「竜宮」ではなく「蓬莱(とこよのくに)」です。

我々がよく知る浦島太郎の物語は、明治43年発行の国定国語教科書『尋常小学読本』巻三に「ウラシマノハナシ」として掲載されたもののようです。しかし日本各地には浦島伝説の様々なバラエティがあり、磐城に伝わるものにも、いくつかの異なる点が認められます。

本多徳次『四倉の歴史と伝説』(1974)の中に、芳賀次郎兵衛なる人物の書物から引用がありますが、それによると、浦島太郎とは大字下仁井田の仁井田重兵衛であり、その屋敷跡が現在の諏訪神社(下仁井田)になっているとのことです。その他、亀を捕らえたのは子どもではなく大人であったり、太郎はその大人と亀に酒を飲ませていたり、後日亀が単独で来るのではなく、乙姫自らが亀に乗って迎えに来る、という点でも違いがあります。

しかし、磐城の浦島伝説の最もユニークな点は、乙姫の妊娠と出産にあるでしょう。それは閼伽井嶽の「龍燈」伝説として現代に伝わっています。この稿では詳細に触れませんが、難産で苦しんだ乙姫が、閼伽井嶽の薬師様のご加護で無事に出産し、そのお礼のため、夜な夜な「龍燈」という火を献じたという物語です。

それは毎夜仁井田浦から現われ、次第に増えて明滅しながら次々と川を遡り、「龍燈杉」という大杉に灯ってから、薬師堂に入っていったと伝えられています。かつてはその龍燈を見るための「龍燈場」という櫓が設けられ、天下の名勝奇勝として遠方からも見物客が訪れました。

そしてこの龍燈が「仁井田浦」から発するとされる点も、磐城の浦島伝説(竜宮伝説)の地理的一貫性を感じさせます。竜宮は仁井田浦の彼方沖にあるんですね、きっと。

いわき市より北では、私の知る限り、浦島伝説が極端に少なくなります。ウミガメが登場するものに限れば、ほぼないと言ってもいいかもしれません。浦島伝説の北限とアカウミガメ産卵の北限が奇しくもここ磐城で一致していることは大変に興味深い事実です。

 

磐城に伝わる浦島伝説と竜宮伝説

  1. 太郎の屋敷であったと伝えられる下仁井田の諏訪神社
  2. アカウミガメの産卵が観測される夏井川河口付近の浜
  3. 龍燈杉、樹高42m、胸高幹周り9.24mはいわき市最大

 

ウミガメを埋葬し墓を建てるという習俗も全国的に分布しています。建立年月日に着目すると、(あくまで現存するものからの判断になりますが、)こうした建立が行われるようになったのは江戸末期からで、最も古い事例が嘉永元年(1848)、大半のものは明治30年代以降のものであることが分かります。石塔の建立が濃厚に行われていたのは昭和40年代までのようです。

これらの石塔は普通、建立年や埋葬者が分かる程度で、ウミガメの種類や、埋葬するに至った背景などはほとんど伝わっておりません。しかしここ磐城には、大変具体的な経緯が分かっている非常に稀有なケースが2例もあり、これは全国的にも大変貴重な民俗学的財産と考えますので、ぜひここで紹介しておきましょう。

一つ目は小島孝夫「漁業の近代化と漁撈儀礼の変容」に詳述されています。諏訪神社(中之作)の旧社殿参道入口にある「亀大神」の石塔です。昭和13年7月、大時化の翌日、ワカメ採取に出た漁師がアカウミガメの漂着死体を発見しました。浜まで運び、神社鳥居下に埋葬。石塔を建てて供養します。ところがその10年ほど後、中之作では不漁が続きました。

地元の「ユウキチ稲荷」という拝み屋(神憑りする祈祷師)に見てもらうと「アカウミガメ様の信心が足りない」と云います。そこで中之作の漁師たちは、石塔全体を赤く塗り、「亀大神」として祀り直しました。これが昭和27年8月のことで、結果この石塔には昭和13年と昭和27年の二つの紀年銘が刻まれています。

 

中之作に残る「亀大神」の石塔

  1. かつては磐城平藩の外港として栄えた中之作漁港
  2. 諏訪神社(中之作)旧社殿参道入口にある「亀大神」の石塔
  3. 諏訪神社(中之作)の現社殿

 

二つ目は諏訪神社(小名浜)の「亀王大神」で、山田慶次郎『風雪の小名浜』(1974)に詳しい記述が残っています。

大正元年(1912)8月のある日、時化続きの風雨の中、警報が出され各漁船が帰港しました。そこに津波の前兆である引き波があって浜は騒然。人々は避難しましたが、やがて激震が襲い、家屋倒壊などで犠牲者が出たと云います。古い話で記録もなく、詳しいことは確かめられないのですが、本書には「現在七十歳前後の郷土人は記憶にある」とはっきり書かれているので、やはりこのようなことがあったのでしょう。

その翌日のことです。凪を待って港内を清掃していると浅瀬に瀕死のウミガメとウミヘビがうごめいていました。ウミガメは畳一枚ほどの甲羅をもち、貝が覆っていて山のようだったと云います。普段から小名浜の「釜の前(亀ケ淵)」には子亀が無数にいたため、このウミガメはここの主であろうということになりました。

一方ウミヘビは胴周り20センチ、長さ150センチほどで、その頃、綱取岬(三崎)周辺で目撃談が絶えず、しかしこれまで人的被害のなかったことから、これも同じくこのあたりの主であろうとされました。

網にかかったウミガメに酒を飲ませて海に返すという習俗は日本沿岸の至る所で見られますが、この時も地元の造り酒屋「清水屋」から菰樽を出し、酒好きと考えられている両者に存分に飲ませました。しかし3日後、彼らは前後して死んでしまいます。

小名浜衆で協議した結果、この両者の喧嘩が今回の惨事(地震と津波)の原因であろうとされ、祟りのないように「火葬」とし、小名浜の守護神として共に祀ることとなりました。

諏訪神社の境内には大変多くの神々が祀られていますが、ウミガメとウミヘビが祀られていると考えられる石塔は「亀王大神」(大正5年建立)、そして「七大大蛇神」(昭和25年建立)しかありません。前掲書の記述と建立年が異なりますが、後年建て替えられたものかもしれません。

 

小名浜諏訪神社境内にはウミガメとウミヘビが祀られている

  1. 子亀が無数にいたという亀ケ淵
  2. 亀王大神の石塔
  3. 右から2番目が七大大蛇神の石塔

 

前出の小島孝夫「漁業の近代化と漁撈儀礼の変容」では、ウミガメの埋葬が明治30年代以降顕在化してくる背景に、漁船の動力化と新しい漁法の普及があったのではないかと推測しています。沖合漁場でのこれまでにない海難事故は自然界のバランスを崩したことへの海神の怒りを想起させ、新しい網漁によるウミガメの混獲死は、不吉なものとして人々に不安を与えたことでしょう。先に挙げた中之作と小名浜の事例も、まさにその時期のものです。

では、江戸末期まで、ウミガメの埋葬という習俗は見られなかったのでしょうか。実は、諏訪神社(小名浜)にはもう一つ、ウミガメの埋葬と思われる大変古い事例が言い伝えられているのです。この神社で最も大切にされているものは境内の一角にある「亀石」とされているのですが、最後にこの「亀石」の話を紹介してこの稿を終わりましょう。

諏訪神社(小名浜)は建仁元年(1201)、当時この地方を収めていた岩崎将監によって信州諏訪大社より岡小名宮の作に勧請されました。その後至徳2年(1385)、より海に近い現在地に遷座されましたが、その際、小名浜の漁師がウミガメを連れて来たといいます。詳しい事情は分からなくなっていますが、そのウミガメを境内に埋め、その上に石を置き、これを「亀石」と称しました。

境内の様々な神に捧げられたお神酒は、最終的にすべて亀石に捧げる(かける)ことになっており、その儀礼は現在でも粛々と続けられています。上から見ると亀のような形をしているのですが、元々はただの石塊であったものが、お神酒を捧げるうちウミガメの姿に変じてきたと云われています。面白いですね。

 

小名浜鎮守諏訪神社はウミガメと縁が深い

  1. 諏訪神社二の鳥居の珍しい青色は海の色だとされている
  2. 亀石が祀られる境内の一角
  3. 上から見れば亀のような形に見える

 

この列島に暮らす人々とウミガメの関係は、単に利用する側とされる側といった図式には収まりません。その多様な関わり方は、私たちの世界観の表れとも言えるでしょう。

竜宮とは、古く遡れば「蓬莱(とこよのくに)」でありました。「万葉集」の歌には「常世の浪の重浪寄する国(常世之浪重浪歸國)」という常套句があり、海岸に寄せる波は常世の国から直接やってくるものと考えられていました。蓬莱は「理想郷」であると同時に「死後の世界」でもあります。ウミガメは、ヒトと彼方を繋ぐ不思議な存在だったのです。そしてハマ(浜)は、その両者が出会う、大変重要な入会地だったと言えるでしょう。

震災後、津波被災地の沿岸では様々な防潮堤工事が行われてきました。それを計画する際に、現代的な環境保護の観点のほか、以上のような精神世界は少なからず考慮されたものなのでしょうか。いわき市沿岸のアカウミガメの産卵記録も、一般には公開されておらず、特に震災後はその状況を知り得ません。

J.Spotila『Sea Turtles』(2004)の中で、日本は「世界中で最もウミガメに対して悪影響を及ぼしている国」との評価を受けました。本書がきっかけとなり、ウミガメにも留意した環境政策・水産政策の機運が高まったと言われています。個人的には、いつの日か日本が、ウミガメの環境に最も貢献した国となることを期待していますし、さらに言えば、入会地であるハマへのアクセスが、ヒトからも彼方からも、心安く容易であって欲しいと願ってやみません。

 

参考文献
山田慶次郎『国際港港湾史 風雪の小名浜』(1974)
本多徳次『いわき北部史 四倉の歴史と伝説』(1986)
いわき史料集成刊行会編、鍋田三善撰『陸奥国磐城名勝略記』(1994)
柳澤践夫「福島県のウミガメ」うえいぶ編集委員会編『うえいぶ』第23号(2000)
柳澤践夫「いわきの浦島太郎」うえいぶ編集委員会編『うえいぶ』第26号(2001)
小島孝夫「漁業の近代化と漁撈儀礼の変容:千葉県銚子市川口神社ウミガメ埋葬習俗を事例に」成城大學大學院文學研究科編『日本常民文化紀要』第23輯(2003)
環境省自然環境局・日本ウミガメ協議会『ウミガメ保護ハンドブック』(2007)

 

<vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画

>vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性

 

磐城国 海の風土記(全10回)

目次

vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画

vol.2 ウミガメ〜彼方とヒトをつなぐもの

vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性

vol.4 神白~ちはやぶる神の城から

vol.5 住吉~極東の海洋都市

vol.6 湯ノ岳~小さな霊峰の幽かな息づかい

vol.7 ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体

vol.8 剣~ハマの亡霊が魅入るもの

vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市

vol.10 クジラ~沖を行くものの世界(完結)

 

イベント詳細

イベント名小名浜諏訪神社
場所いわき市小名浜諏訪町
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