いわき市の郷土史研究家、江尻浩二郎さんによる新連載「磐城国 海の風土記」。ついに7回目。今回は、いわきが誇る伝統芸能「じゃんがら」と海について。
磐城国 海の風土記 vol.7
ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体
文章:江尻浩二郎
明治25年(1892年)に書かれた大須賀筠軒『磐城誌料歳時民俗記』には「岩城の名物/じゃんがら念仏/菜大根/背中に灸点/てんのくぼ」という言葉が出てきます。
菜大根は、味噌を作る時の大豆の煮汁を使った大根の漬物。背中の灸点というのは、岩城の人はすぐお灸をするので背中にその跡が満ちていたこと。てんのくぼは、間食の際、皿を使わず手のひらで受けて食べること。これは今でもよく見られます。
つまり岩城の名物は、まずじゃんがら念仏。菜大根という漬物。そして背中にはお灸の跡が満ちていて、間食の時は食べ物を手のひらにとって食べること、ということになりますね。人々の息づかいが聞こえてくるような、いい言葉だと思います。
じゃんがら念仏踊り(以下、ジャンガラ)は、太鼓と鉦(および一部で笛)、そして唄と踊りによって構成されたいわゆる伝承芸能で、一般的には念仏踊りと盆踊り、双方の要素を持ったものだと考えられています。現在は青年会や保存会、さらには子ども会など、115もの団体によって伝承され(2016年現在)、新盆の家を巡る他、地域の祭礼、各種イベントなどでも盛んに演じられています。
また、北は大熊町や双葉町、西は古殿町や小野町、南は茨城県北茨城市大津などでも伝承されており、その分布が中世岩城氏の勢力範囲とほぼ重なっていることから、福島県の浜通りは、北の「野馬追文化圏」と南の「ジャンガラ文化圏」に分かれると考えることもできるでしょう。
念仏踊りとはその名の通り、念仏と踊りがセットになった古い芸能で、時代が下ると次第にその宗教的意味が薄れ風流化(華美な趣向をこらし見世物的になること)してきました。現在では実に様々な形態で全国的に分布しています。
国の重要無形民俗文化財に指定されている念仏踊りには、香川県綾歌郡綾川町の「滝宮の念仏踊」、長野県下伊那郡阿南町の「和合念仏踊り」、京都の「六斎念仏踊り」がありますが、磐城のジャンガラは、そのどれともあまり似ておらず、独自の展開をしてきたものと云っていいでしょう。
ジャンガラがどのように始まり、どのように変化してきたのか、はっきりとしたことは分かりません。以下、簡単にその歴史を辿ってみますが、煩雑さをさけるため、文献の内容はすべて平易な現代語に改めています。
まずは一番古い記録から。光明寺十五世住職、歡順が書いた『小川江筋由緒書』には以下のような記述があります。
【1】小川江筋由緒書
明暦2年(1656年)7月14日は一周忌なので、石塔を建て、読経をしていたところに、小川江筋沿いの、鎌田から四倉までの十か村余りの人々がこれを聞きつけ、光明寺へ集まり、経文が読めないからと云って、老若男女で念仏供養をした。この時、人々は勘兵衛の恩に報いるため、毎月集まり念仏興行をすることを約束した。磐城国の念仏講はここから始まったのだ。
小川江筋という用水路の開削に功があった沢村勘兵衛の一周忌に念仏供養が行われたことが書かれています。ただ、これが念仏踊りだったのかどうかは定かでありません。
次に内藤家の家老を務めた穂鷹家の『御内容故実書』を見てみましょう。年不詳ですが、内藤家が延岡に転封されてから書かれたものなので、少なくとも1747年以降の成立ということになります。この文書には【1】と同じ事柄について、以下のように記されています。
【2】穂鷹家御内容故実書
風山公(内藤義概)は彦左衛門(勘兵衛の誤りか)の菩提を弔うため、理安寺(光明寺の誤りか)という寺を作ったが、そこで泡斎念仏が始まった。それは理安寺だけのことである。その唱えに「風山殿へ御回向申す、彦左衛門殿へ御回向申す」と云う。じやぐわらじやぐわらと鉦を叩き、立念仏を騒がしく唱えるのは磐城の名物である。
ここでは、磐城の念仏踊りの起源が、彦左衛門(勘兵衛)の供養と結び付けられています。「泡斎念仏」および「立念仏」と書かれてることから、(詳細は省きますが)ただ念仏を唱えるだけでなく、踊りが伴っていたことが分かります。ただ、この記録は少なくとも100年ほど時代が下ったものである、ということは考慮に入れなければなりません。
次に寛文11年(1671年)、磐城平藩が領民に出した通達を見てみましょう。
【3】七月九日令達
念仏踊りや百堂参りは行ってもよい。しかし大勢で美麗を尽くしてはならない。
この時点で既に「大勢で美麗を尽くした」念仏踊りが行われていたことになります。領主はそれを制限しました。
次に、元文3年(1738年)に愛谷村慈眼院の郷中が出した願書。
【4】愛谷村慈眼院郷中念仏願差上申願書之事
当寺の客殿が大破してしまい、来春、建立の準備をしたいところだが、貧しい寺なので、自力では難しい。愛谷村が盆中に、三日間、念仏をして金を工面したい。
寺院の建立や修復をするためのこのような念仏興行は、磐城でも盛んに行われていたようです。
次に前出の「磐城誌料歳時民俗記」の中で引用されていると考えられている『磐城枕友』の一部分。宝暦11年(1761年)、好間村熊野権現社の宮司が書いたというものですが、現存する文面にはこの部分がなく、はっきりしたことは分かっていません。
【5】磐城枕友
お盆の時期になると、村里から、鉦や太鼓を打ち鳴らし、老若男女が十四、五人ほどのグループをつくり、城下へやって来る。神社や寺をまわって念仏踊りを踊る。新盆の家の前でも踊る。中に呼び入れて踊らせる家もある。町々を廻り、夜遅く村里に帰る。
1671年には領主から制限をつけられたジャンガラですが、およそ100年後、このような形で続いていました。
次に天保年間(1830年~1845年)に書かれた鍋田三善『晶山随筆』。
【6】晶山随筆
磐城の風俗に念仏踊りがある。老若男女が手拭をかぶり、十四、五人ずつがグループをつくって、盆中、寺院の回向供養の為(以下略)
さらに80年程経っても、磐城の風俗として特筆すべきものであったことが伺えます。
次に明治6年(1873年)、磐前県が禁止令を出します。これは全面禁止です。
【7】禁令
磐城の風俗として、旧来、念仏踊りと称し、夏から秋にかけ、仏の名を唱え、太鼓を打ち、男女が群れ、夜通し遊び歩き、中にはどうかと思う醜態があると聞く。文明の今日にあるまじく、悪い慣習であるので、本年より、念仏踊りを禁止する。子どもに至るまで、よく云って聞かせるように。
これには新政府が進めた神仏分離運動の影響があるかと思われますが、ここでいう醜態とはどのようなものだったのでしょうか。これは実は、前出の『磐城誌料歳時民俗記』に大変詳しく書かれています。
【8】磐城誌料歳時民俗記
盆中は、日本各地で踊りが踊られる。その曲や様子はそれぞれに異同がある。磐城の念仏踊りは、名称は「松ケ崎題目踊り」や「札ノ念仏踊り」と同じだけれども、実は一種の踏舞である。(中略)男女が輪になり、鉦や太鼓を打つ。太鼓を打つ者は二、三人で、輪の中央にいる。白い布で頭を縛り、袖をくくるが、これを「白鉢巻、白襷」という。太鼓を腹の下に付け、頭を傾け、腰をかがめ、撥を舞わせて太鼓を曲打ちする。鉦を叩く者は数名で、装束は太鼓の者たちと同じ。鉦架を左肩からさげ、丁字木で鉦を摺るように打つ。太鼓を数える時には「から」と云い、鉦を叩くことを「切る」と云う。 踏舞する者はこれに混ざって、太鼓打ちの周りを巡る。鱗のように重なり、輪になって回る。鉦と太鼓には緩急がある。その急なるは、走馬燈を見るようで、人々は手を振って走る。その緩なるは、一斉に「なァーはァーはァー、なァーはァーはァー、めェーへェーへェー、めェーへェーへェー」と唱え、なまめかしく舞い、巧みに踊る。手を打って拍子をとる。いわゆる甚句踊りとは似て非なるものである。 その中には、女装した男性や、男装した女性がいる。あるいは裸体で揮を締め、その端を後ろの者の揮に結び、さらにその者も同様に後ろの者に結び付ける。あるいは菰を鎧にし、蓮の葉を兜にし、箒やスリコギ棒を大小の刀にし、仮面を被り、武士の扮装をする者もいる。つとめて目新しさを競い、笑わせようとする。その醜態は見るに忍びないものがある。 じゃんがら念仏はお盆だけでなく、神社仏閣の宵祭にも踊る。あるいは開帳、入仏供養、大般若会等でも踊る。領主の法事が行われる時にも、菩提寺に来て堂前で踊る。その場で酒や御馳走を賜わる。盆と宵祭以外では、男女装いを異にするような醜態はない。 廃藩置県以来、弊害があると考えられ、禁止となった。今はやや旧態に戻ったようである。
明治25年頃の様子が大変瑞々しく描写され、その熱狂がひしひしと伝わってくるようです。明治6年に全面禁止されたジャンガラは、この頃にはまた元に戻りつつありました。
次に、大正2年(1913年)石城郡役所がまとめた『石城郡誌』を見てみましょう。
【9】石城郡誌
その念仏は二種類ある。ーつは年寄りの「座敷念仏」、もうーつは若衆の「立念仏」である。「座敷念仏」とは縁日や葬礼、そのほか仏事の念仏に関するもので、先づ焼香し経文を読み和讃念仏を唱へ、 鉦太鼓に合わせて、 くり返しくり返し云う。 次に若衆の「立念仏」とは縁日または新盆にするもので、男女混合の和讃念仏を三唱し、鉦太鼓に合わせて、くり返しくり返し云う。この時、男女は様々な装いをして踊る。その歌詞は「メーヘーモーホー」というようなもので滑稽である。これは南無阿弥陀仏の変化だと云う。
年寄りの座敷念仏、若者の立念仏を明快に分けていることは重要かと思います。またここで、メーヘーモーホーというような唄い文句が南無阿弥陀仏の変化とされていることにも注意が必要です。これは長い間疑いなく信じられてきましたが、今では留保する研究者も少なくありません。
次に、大正15年(1926年)7月までに脱稿した高木誠一『石城北神谷誌』の中の「念佛講」の項。
【10】石城北神谷誌 念仏講
これは年寄りのクラブの様なもので、60歳頃になって隠居して、格別家に用のないものなどが、酒一升位を持参して仲間に入れてもらい、毎月24日の月念仏、または盆、彼岸、虫供養、馬頭観音、薬師、そのほか臨時に雷神、雨乞い、テントウ念仏など、年に何回となく集まって念仏を唱える。(中略)年回に当たった仏のある家では、イレメイと云い、酒3升ないし5升位、また手拭いなどをあげて念仏回向してもらい、又、立念仏と云って、あげた手拭をかぶってジャンガラ念仏を踊ってもらうのを常とする。
ここに念仏講とジャンガラの関係が書かれています。全体の様子としては近年まで房総に残っていた念仏講と大変に近いです。もうひとつ同書から「ジヤンガラ念佛」の項を見てみましょう。
【11】石城北神谷誌 ジャンガラ念仏
磐城の盆踊りはジャンガラ念仏が第一である。この念仏は若衆組でも踊る。寺の縁日、又は新盆の家を廻って踊るのである。先ず始めは円形になり、中央には首から緒をたれた直径一尺五寸程の長形の太鼓をぶらさげ、先端に白い毛のついた七寸程の撥を両手に持ち、鉢巻、欅がけの太鼓打ちが2人または3人入る。この太鼓打ちが太鼓を打始めると、それに和して、円形の者は頬冠りをして、木製のカギ形の枠に釣るした伏鐘をチャンキチャンキと打ちながら、両足を共に振ったり、前後に振ったりして円形に飛び廻る。これをカネキリと云ふ。鐘と太鼓とで踊るものが終わると、太鼓打ちだけが円内に残り、今度は女も混ざって、唄を唄い、手踊りをするのである。
装束、楽器、踊りの様子もほぼ現在と同じであるように思われます。「磐城の盆踊りはジャンガラ念仏が第一である」と書かれていますが、ここでは明確に「盆踊り」と位置付けられていますね。「第一である」ということは他にも盆踊りが複数あった訳ですが、この頃はジャンガラが大変に優勢であったことが分かります。
盆踊りと云えば、草野日出雄がその著書『霊場閼伽井嶽』(1981年)の中で、赤井嶽薬師常福寺の盆踊りに関する大変興味深いリサーチを行っています。これによれば、盆踊り=ジャンガラであったのは昭和の初め頃までだったということになりそうです。
【12】霊場閼伽井嶽
昭和6年に赤井嶽薬師へ登った鹿島町船戸の草野好文氏(69)
以上のように、昭和の初め、いわき盆踊り系統(およびヤッチキ)にとって代わられたジャンガラは、その後も盆踊り的な要素を多分に含みながら、独特な位置を占めていくことになります。
余談ですが、つい先日、いわき市の地域包括ケアの祭典「igokuフェス」の前夜祭で昔ながらの盆踊り型ジャンガラを再現してみました。輪踊り部分を長くして飛び込みで踊っていただいただけですが、雑多な人々が幾重にも取り囲み踊る様子はかつての人々の熱狂を想起させ、私がずっと見たかった景色の片鱗をそこに見ることができました。
私は実は、市内北部の小川町横川地区のジャンガラに所属しております。会員となって5年、太鼓に触らせてもらって4年となりました。大変に幸福なことです。
そのジャンガラに初めて出会ったのは2013年1月。市内の公共ホールで行われた「じゃんがらフォーラム」というイベントでした。5つの団体のステージがありましたが、私はその「二ツ箭山の中腹から下りてきた」という、ひときわ腰が低く、独特の拍を持つジャンガラに魅了されてしまいました。五線譜では書きようがないリズムに鉦や太鼓がぴたり。
普通ジャンガラは青年層が担うものですが、後継者不足に悩む横川地区では、なんと60代が中心メンバーでした。あとから聞いたところによると、40年以上前に先輩から習ったことをそのまま、ほぼ変えずに継承しているそうです。
各地区のジャンガラは、実は日々変化しています。より素晴らしいものにするために、惜しみなく改良されています。40年間ほぼ変化がないというのは、私の知る限りでは横川だけ。
ジャンガラは、あまりに身近であったためか、行政による調査が初めて行われたのは昭和53年です。しかもその内容は、私から見ても非常に粗いものでした。次に昭和63年度、史上初となる悉皆調査(すべての団体への調査)が行われ、いわき市内に限られてしまったのが大変残念ですが、106団体の当時のデータが掲載されています。
残念ながら、多くの団体ではその由来などが言い伝えられておりませんでした。太鼓の胴にある銘を見ると。最も古いのは「内町じゃんがら念仏保存会」の天保2年(1831年)、次いで「合戸宿青年会」の弘化4年(1846年)であり、現在の形状の太鼓を使うようになったのはこの頃である可能性があります。
さて、いよいよ本題に入りましょう。今回はこのジャンガラについて、そのリズムおよび身体という観点から考えてみたいと思っています。
ジャンガラの太鼓と鉦のリズムは、いわゆるハネ系で、西洋式の譜面で書けば付点がつくものです。念仏踊りは全国にありますが、私はこのハネ系の念仏踊りを未だ見聞きしたことがなく、むしろ音楽的には山伏神楽とのつながりがあるのではないかと思っています。そしてこれこそが、私たちのジャンガラの最も留意すべき特徴のひとつでしょう。
リズムについての言及は、文献にはほとんど出てきませんが、【2】では「じやぐわらじやぐわら」、【11】では「チャンキチャンキ」と表現しています。
【2】は現代的表記に改めると「ジャガラ」となるかと思いますが、現在、手平鉦(小さいシンバルのような楽器)のことを、津軽地方などで「ジャガラ」、また豊前地方などで「ジャンガラ」と呼びならわしており、古くから鉦系の楽器の擬音語として定着していたとも考えられます。またこの文書は前述のように、少なくとも100年ほど昔の遠い国のことを書いており、写実的な表現であるかどうかは疑問が残るところです。
【11】の「チャンキチャンキ」は類似の表現が他に見られないことから、筆者個人による写実的な表現と思われ、口に出せば分かるように、これは素直にハネるリズムでしょう。私はこのリズムが現れた時点をジャンガラの直接の起源と考えたいのですが、残念ながら【11】以前に遡る史料はありません。ただ、少なくとも150年以上続くリズムだということは言えるかと思います。
民族音楽の研究家である小島美子氏は、この列島のリズムを、①水田稲作農耕民的リズム、②狩猟採集民的リズム、③山村民的リズム、④牧畜民的馬乗りリズム、⑤海洋民的波乗りリズム、の5つ観点から長年考察しています。これを補助線として、私たちのジャンガラについて考えてみましょう。
①「水田稲作農耕民的リズム」の例としては、能のように腰を落とした静かな体の動きが挙げられています。水田の中での足の運びが、強拍弱拍のない淡々とした二拍子を生んでいるという考え方です。平地区は平地が比較的多く、それ以外の地域と比べると、水田稲作農耕民的性格が強いように思います。上下の動きが少なく、躍動感というよりはゆったりとした優雅な動きに美を感じているようです。
②「狩猟採集民的リズム」の例としては、一拍一拍にはずみを持つアイヌの剣舞が挙げられています。また、すべての拍がビートをもつアフリカのリズム、そしてそれが後に整えられたロックやジャズとの類似を指摘しています。しかし列島全体を見た場合にこの種のリズムはあまり見られず、現在のジャンガラにもこのニュアンスを感じるものはないように思います。
③「山村民的リズム」の例としては、スキップや跳躍が多く現れる宮崎県椎葉村の神楽などが挙げられています。焼畑や狩猟で日常的に斜面を歩く為、その足腰の柔軟さが平地の暮らしとは異なるだろうという考え方です。これで私が思い浮かべるのは、自分が所属する横川のジャンガラです。まず基本姿勢が非常に低い。
太鼓の位置も、私の知る限り最も低くなっています。下荒川などはお腹に付けますが、横川は脛。そして低い姿勢をキープしながら、腰と膝は非常に柔らかく、そのまま前後に大きく飛んだり、かと思うと片足立ちで大きく伸びあがるなど、実にダイナミックな動きを見せます。山の民は重い荷物を背負って斜面を登る様を「顔が地面につきそうだ」などと表現したりしますが、横川のジャンガラは、そんな暮らしの息づかいを私に感じさせます。
また、横川の大きな特徴の一つに(ごく一部ではありますが)拍の伸び縮みがあげられます。古い民謡、特に追分などでは、唄い手が好きなだけ拍を伸ばして唄いますね。能でも拍は伸縮するので、声をかけ、互いの息を合わせます。私は横川のジャンガラにこのような古い拍の感覚が(非常に幽かではありますが)残っているのではないかと思うのです。
横川から二山超えた三和町上永井の老婦人が、この横川のジャンガラを見て、「自分の子どもの頃はジャンガラというのはみんなこんな感じだった」と感慨深く語っていました。私には大変に印象的な言葉で、それはまさにこのリズム、拍のことを言っているのではないかと思います。
④「牧畜民的馬乗りリズム」の例としては、南部や津軽の音楽芸能を挙げ、世界的には遊牧民のものの他、歴史的に深く馬と関わってきたヨーロッパや朝鮮半島のものも挙げています。馬上の身体が、その音楽や踊りに大きな影響を与えているだろうという考え方です。
ここでひとつ注意しなければいけないのは、馬の走らせ方はひとつではないということです。アラブ・ヨーロッパが「斜対歩」いわゆるギャロップであるのに対し、遊牧民や古来の日本は「側対歩」を使っていました。戦国時代の武士も「側対歩」だったと考えられています。
これは右前脚と右後脚を同時に出すもので、こうすることにより上下の動きが抑えられるのです。馬上から弓を射るために発達したとも考えられますが、確かなことは分かりません。ちなみに私は中央アジアのキルギスで、この「側対歩」による競馬を見たことがあります。
この馬の走らせ方が、やはりリズムに影響すると考える研究者がおり、小島氏もギャロップと三拍子の関連性についてたびたび言及しています。日本やモンゴルの古い音楽に三拍子はないそうです。
市内遠野町を見てみましょう。遠野地区では笛(篠笛)の入る団体がいくつかあり、それが大きな特徴のひとつですが、身体性に注目すると、太鼓打ちの跳ねる所作が印象的です。遠野も山地ですが、他の山地との違いを考えると、ここが磐城を代表する馬産地であったことに思い至ります。
遠野町滝の方が、モンゴルへ旅行した際、観光コースの一環で乗馬体験があったそうですが、通常は馬丁(手綱をとる人)がつくところ「彼は馬に乗ったことがある」とすぐに見抜かれたと云っていました。
余談ですが、私は前述のキルギスに住んでいたことがあります。キルギス人は世界で最も日本人に似ていると云われ、黙って座っていれば日本人だと気づかれないことも多いのですが、ひとたび立ち上がって歩き出すと、その歩き方ですぐに異邦人だとばれてしまうのです。彼らは独特の弾みをもって歩くので、それを体得しようと随分練習しましたが、それでもやはりすぐに分かると笑われました。根本的に身体の使い方が違うようです。
⑤「海洋民的波乗りリズム」の例としては、沖縄をはじめとする南島の芸能を挙げています。カチャーシーは一拍ごとに体が上下に揺れ、手は波のように招いては返す「こねり手」というものを使います。また、音楽上の最も分かりやすい特徴としては、列島のほとんどがヨイ、ヨイ、ヨイヤサットと拍の頭にかかる前打ちのリズムであるのに対して、カチャーシーのリズムは 𝄾サ、𝄾サ、𝄾サササと後打ちのリズムだということです。(𝄾は8分休符)
以上のようなリズムが、その生活スタイルにより混在しながら、やがて日本では多かれ少なかれ稲作農耕民的に変質していくと小島氏は指摘します。例えば前述のカチャーシーは、そのルーツが「ハンヤ節」と言われていますが、最初、天草の牛深で生まれたものが、海運によって全国的に広がっていったと考えられています。
例えば「佐渡おけさ」もハンヤ節の一種ですが、波乗りのスイングは、哀調をおびたリズムに潜行してしまっているようです。「阿波踊り」はハンヤ節系の中でも最も知名度のあるものですが、表面的には非常に陽性で華やいでいても、男踊りなどを見ると、その重心はやや低く、足腰のスイング感はほとんどなくなっています。また掛け声も前打ちのリズムです。
さて、私は海辺の身体について話をしたいのでした。しかし実は、市内の海辺の集落には、ジャンガラ団体がほとんど存在していないのです。昭和53年の調査では久之浜にひとつ、昭和63年の調査ではゼロでした。現在でも、その後復活した久之浜青年会と、小名浜に新しく結成された小名浜踊友会、そしていわき海星高校の併せて3団体があるのみです。
久之浜青年会に特徴的な身体性は見られず、小名浜の2団体は市内中山間地域から新しく伝授されたということで、これも海辺の身体性は感じられません。私はこのことを大変寂しく思っていたのですが、昨年初めて茨城県北茨城市大津のジャンガラを見た際、これこそまさに海洋民的だと大変感銘を受けたのです。
大津町には7団体のジャンガラが伝承されており、新盆回りの他、8月16日早朝、大津港で行われる「盆船流し」でも奉納されます。私が見たのはこの「盆船流し」であったので、これについて少し言及したいと思います。
「盆船流し」は8月16日早朝、新盆の家が行う歴史ある盆行事です。木で作られた2メートル程の大きさの船に故人の名を書いた帆を張り、合同の法要を行った後、海に流します。時節柄、後で回収するものの、海に流す精霊流しであることは、彼らの精神性を顕著に表しているでしょう。
そこで奉納されたジャンガラは、1拍ごとに上下に揺れていました。沖縄のカチャーシーとも通じる動きです。また、いわき市内にはおそらくない、右に左に旋回するような動きがパターンを変えて何度も現れます。二人一組、また三人一組で向かい合うフォーメーションも、海上での漁撈の様子を思わせました。
その後の「盆船流し」を先導するため、皆、船に乗り込みましたが、その身のこなしから、その演者たちが普段から海で暮らしていることが分かります。
また、持ち船がある家は、自分の船で盆船を沖まで連れて行きます。かつてはみな持ち船があったので、それが普通だったと聞きました。その船には親族が皆で乗り込みます。一族総出で、自分たちの船で、故人を海の彼方に送るのです。
余談になりますが、同じ大津町の「御船祭」というのは神輿をのせた神船を、「ソロバン」という木製の桁を使って曳き回すという奇祭です。詳細は省きますが、この渡御には地元の船方(漁師)しか参加できません。聞いたところでは、今でも大津は巻網の船方だけで200名、その他に小型船舶の船方が80名程もいるのだそうです。まさに海の民の祭りなのでした。
さて、では小名浜に海辺の身体を感じさせるようなものはないのでしょうか。縄文の昔から外洋の大型魚を狙い、江戸期には鯨を、さらに帆掛け船での網漁を経て、昭和期の北洋船で栄えた町です。今でこそ漁師は少なくなりましたが、歴史的な身体性というものはすぐに抜けるものではないでしょう。
よくよく考えると、諏訪神社の大神輿渡御にその名残があるのかもしれません。今現在、東京を中心とした神輿渡御の様態は、神輿を水平を保ったまま上下に「刻む」ものが主流です。しかし小名浜では、流れるように運び、ここという家の前や辻々で揉みます。その揉み方は、ただの上下運動ではなく、荒波に翻弄されるように大きく大きくうねり、しかも時計回りに回転していくのです。
東京流を好む人たちの中に担ぎ方を変えたいという意見もあり、毎年二つのリズムがせめぎあいながら渡御が行われています。神社側としては、昔ながらの担ぎ方で掛け声は「ワッショイ」にするようアナウンスしていますが、気が付くと東京流が優勢となり、「オイサ」や「ソーリャ」になってしまうこともしばしばです。
浅草三社祭にも参加している私は、その東京流の神輿渡御も好きで、担ぎ方を変えようとする陣営の気持ちも十二分に分かるのですが、ただ一つ残念なのは、その東京流渡御の中に、海洋民的なスイングがないということなのです。
かつて小名浜諏訪神社の神輿は漁師だけで担いでいたと云います。北洋船の衰退、そして原発事故の影響で、その数は激減しました。神輿渡御にも現役の漁師はほとんどいません。ただ私は、かつてこの大神輿が、帆掛け網船のように、鰹釣り船のように、あるいは北洋の巻網船のように大波に揺れていただろうと夢想します。一部から、粋じゃない、古臭いと評される現在の渡御も、そう思えば、どこか愛おしく感じるのです。
今現在の、私たちの多くの身体性とはどのようなものでしょうか。専業で稲作を営む人も少なく、山に生きる人も少なく、日常的に馬上にある人も少なく、船に乗る人も少ないでしょう。あえて言えば、車で移動し、デスクワークをする身体なのかもしれません。そう思えば、今のポピュラー音楽は、やや平板で滑らかな疾走感を持つものが多いように思います。そしてそれは、各地区のジャンガラを見ても感じることです。
もとは一つであっただろうジャンガラが、広大な地域に伝播する過程で、それぞれの生活に影響を受けながら多様に変化して行く。このダイナミズムをひとつの芸能の中に見ることができるのが、我々磐城のジャンガラの紛れもない大きな魅力のひとつでしょう。500年後、1000年後にジャンガラが伝承されているとすれば、そこにはまた違った身体性が見られるはず。もちろん、私には見ることが叶いませんが。
参考文献
いわき市教育委員会編『いわきのじゃんがら』1979
草野日出雄『霊場閼伽井嶽』1981
小島美子『日本音楽の古層』1982
小学館『日本大百科全書』1984~1994
大林太良ほか『日本民俗文化体系第七巻演者と観客=生活の中の遊び』1984
いわき市教育委員会編『いわきのじゃんがら念仏調査報告書:文化財基礎調査』1989
いわき伝統芸能フェスティバル実行委員会『いわき伝統芸能フェスティバルの記録』1996
夏井芳徳『ぢゃんがらの国』2012
竹内勉『民謡地図⑨盆踊り唄 踊り念仏から阿波踊りまで』2014
磐城国 海の風土記(全10回)
目次
vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画
vol.2 ウミガメ〜彼方とヒトをつなぐもの
vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性
vol.4 神白~ちはやぶる神の城から
vol.5 住吉~極東の海洋都市
vol.6 湯ノ岳~小さな霊峰の幽かな息づかい
vol.7 ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体
vol.8 剣~ハマの亡霊が魅入るもの
vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市
vol.10 クジラ~沖を行くものの世界(完結)
イベント名 | 常磐地区のジャンガラ |
場所 | 福島県双葉郡、いわき市、茨城県北茨城市など各地 |