いわき市の郷土史研究家、江尻浩二郎さんによる新連載「磐城国 海の風土記」。今回は、江尻さんのルーツ、下川の剣地区についての論考です。
磐城国 海の風土記 vol.8
剣~ハマの亡霊が魅入るもの
文章:江尻浩二郎
私は小名浜生まれの小名浜育ち。いわゆる小名浜衆ですが、曽祖父・江尻子之太郎は滝尻川(藤原川)の川向こう、泉町下川の産です。今回はこの下川の剣(つるぎ)地区について書いてみたいと思っていますが、これには少し想像力が必要となります。実は剣地区は、昭和40年代、工場用地造成のために跡形もなく消え失せてしまったのです。
下川郷土史調査委員会『下川郷土史』には、小野重明氏による大変貴重な手描きの絵図が掲載されています。「江戸時代から大東亜戦争までの繪図」と書きつけられたそれは、現在の景色と突き合わせることが大変困難で、これほどの変貌をとげた市内の地域を私は他に知りません。
剣は大剣(おおつるぎ)と小剣(こつるぎ)に分かれ、地元ではそう呼んでいましたが、近代以降、行政資料上は「大剣」と一括りにされており、詳細を分けて考えることが困難なため、以後、集落名としては「大剣」に統一したいと思います。またハマの呼称も大剣浜と小剣浜に分ける場合、双方合わせて剣浜(つるぎはま)と称する場合、剣浜と同じ意味合いで大剣浜と称する場合と様々ですが、ここでは漁業協同組合の名称に準じて「剣浜」に統一しましょう。
下川の工業地帯化は昭和36年に始まります。河川改修で沼地となっていた所を埋め立てると、翌年、関西から堺化学工業株式会社の酸化チタン工場が進出しました。これは、同社の提携先である三菱金属鉱業の強い勧めによるもので、同じ三菱系の日本水素工業株式会社(現・三菱ケミカル株式会社)を加えた3社による「無機化学コンビナート」構想に拠るものでした。
また、石炭産業の斜陽化により、新たな道を模索していた常磐エリアは、昭和39年、激しい争奪戦の末、全国でも例を見ない、1県2地区の「新産業都市」指定をもぎ取ります。国側としては、太平洋ベルト地帯に集中する重化学コンビナートを地方に分散する狙いもありました。これが下川の運命を決定づけたといってもいいでしょう。
昭和41年10月1日、新産業都市建設促進法第23条に則り、14市町村が新設合併。現在のいわき市が成立します。その後、剣浜を含む小名浜港湾拡張計画が発表されました。
当時、剣浜では沿岸漁業が行われていました。大剣に住む26戸のほとんどが半農半漁で生計を立て、漁民は「剣浜漁業協同組合」に所属していました。市内13組合のなかで最も水揚げ高の少ない組織でしたが、それでも毎年1万5,000トン前後の水揚げがありました。
福島県は、用地買収と並行して漁業関係者との交渉に入りました。数十回に及ぶ会合を経て合意に達し、昭和45年4月、漁業権の買い上げ(つまり漁場の放棄)と、漁業協同組合への補償が決定されました。役目を終えた剣浜漁業協同組合は、昭和48年4月、解散となります。
人々は、漁業を放棄する一方で、農業の継続は望んでいました。移転先としては、同じ下川の北方約2kmに位置する、字萱手(かやで)およびその周辺が選定され、農地を補償された全戸移転をすることで妥結しました。いわき市は、国の補助を受け、丘陵地を切り拓き「萱手営農団地」を造成。大剣ほか53戸は昭和47年から48年にかけて順次移転しました。
これは福島県企業局が初めて行った団地開発であり、工事の手順やインフラの整備など、種々なトラブルが発生しました。中でも水の問題は深刻で、農業用水を引き水利組合を結成したものの、漏水で使い物にならず、結局組合は解散。また岩盤が強固なため畑作に不適であることが分かり、農地は荒れて行きました。
一方、剣浜の造成地には、油槽タンクの設置が進み、製油所の建設を待つばかりとなっていましたが、昭和48年秋からのいわゆる「第一次石油危機」で石油精製計画は大きく転換を余儀なくされることになり、以後、石油コンビナートが建設されることはなく、石油備蓄基地としてタンク群が並ぶだけとなりました。
尚、農業を営むことが困難と分かった住民は、すぐに農地の宅地転用を希望しましたが、これは制度上、手続き上の多くの問題を含んでいた為に難航。改めて土地区画整理が行われ、換地処分が終了したのはなんと平成20年のことです。その際名称も変更となり「泉もえぎ台」となりました。
この「泉もえぎ台」が震災後、全国的に注目を浴びることとなります。双葉郡などから多くの住民が転入したため、平成27年3月における地価の公示で、前年からの伸び率が全国一(17.1%アップ)となったのです。高台に位置し地盤が安定していること、特急列車が停車するJRの駅に近いことなどがその人気の理由でした。
その「泉もえぎ台」の最奥に墓地があり、その一角に津波犠牲者の供養塔があります。通称「二千人塚」。大剣にあったものが、墓地と共に移転してきたものです。「元禄七年/丙子年/二千余人輩菩提/六月二十八日法印桃雲代」と刻まれ、これは、年月日が異なるものの、元禄9年(1696年)6月27日の大波で溺死した2450余名の供養塔だと考えられています。山上にあるこの石塔の前に立つと、大剣という地区の激動を感じざるを得ません。
その近隣に正八幡神社があります。旧鎮座地は下川字大剣78番地。全氏子と共に現地に移転してきました。その後平成13年の区画整理で海抜を下げ、面積を狭めましたが、今も旧大剣住民の崇敬を集めています。
同じく大剣に鎮座していた山ノ神も立ち退きを余儀なくされ、これは隣接する大畑(おおばた)地区に移転されました。現在ふたつの石祠があり、向かって左が山ノ神ですが、右はその由緒が分からなくなっているそうです。正八幡神社の社殿の後ろにあったとのことですが、それ以上のことは辿ることができません。
また、現在も八崎(はっつぁき)の先端に祀られている龍神(八大龍王尊)は、大剣と大畑の採鮑業者(潜水漁業者)が祀っていたもので、これも大畑地区が引継ぎました。龍神と山ノ神は、今でも年に一度、10月の第二日曜日に祭礼が執り行われています。
上記の如く様々なケースがあり、大変興味深いのですが、正八幡神社は全氏子と共に山の上に移転したケース。山ノ神は隣接する地区に移転し、お祀りする主体が変わってしまったケース。龍神は(隣接地区と共に職能属性でお祀りしていたものですが)お祀りする主体から外れたケース。決断の際には多くの議論が尽くされたと思いますが、当時の事情を知る方はもう他界され、記録もなく、詳しい経緯を知ることはできません。
いわき地域学會『藤原川流域紀行』に収録されている、江尻陽三郎「失われた水の辺」の中に、かつて滝尻川河口にあった渡し船の記述があります。江尻氏は下川字井戸内に生まれ育った方で、この稿で何枚も取り上げる古写真の撮影者、江尻慎一郎氏はその実兄に当たります。
写真は、今から三十五年余前の早朝、神笑地区の東端で、当時高校生の写真好きの兄が撮ったものである。下川と小名浜を結ぶこの渡し船はその後まもなく姿を消したが、写真のような河口の景観はそれから十年後、付近に関西から化学工場が進出してくるまでは残されていた。
明治初期、茨城県南部の潮来から、下川字神笑(かみわらい)に移り住んだ父娘がありました。父は小林新造といい、当時下川から小名浜への橋がなかった為、集落で乞うて渡船の船頭をお願いしたそうです。潮来というのは利根川水運で大変に栄えた水郷で、現在も水路を行く手漕ぎ船が観光資源となっているような御土地柄。川船の扱いは体に染みついていたことでしょう。
新造さんは明治30年に亡くなりましたが、江尻鉄次郎さんがその跡を継ぎ、更に鈴木庄蔵さんへと受け継がれ、この渡し船は戦後まで続いていました。小名浜側に渡っても道らしい道はなく、松林を縫うような細道をとぼとぼと歩いて行き来したそうです。2枚目の写真などは川面と空の境界がおぼろで、その中に吸い込まれてしまいそう。非常に美しい一枚ですが、うっとりと見とれているうちに帰る岸辺を見失ってしまいそうな、怪しくも物狂おしい気持ちになって来ます。
再び、江尻陽三郎氏のテキストを引用しましょう。
あなたたちの何人かは記憶にあるであろう。常磐炭砿の保養所「悠々荘」があったことを。そして川には貸しボートがたくさん浮かんでおり、岩場の前には時折四つ手網が張られていたのを。河口は、曲流作用のためか、よく位置を変えていた。それが大剣の海食崖の近くにあったころ、天狗岩と剣浜の墓地との聞の、大きな凹穴のある崖のはるか上の方の薮の上を真っ青な小鳥が飛び交っていたことを。
「悠々荘」は今でもその基礎だけが残っていますが、そこから海は見えません。貸しボートが浮かんでいた河口は、今では産業道路となっています。四つ手網は、市内では四倉の横川で今も見られますが、それをイメージできる人は随分少なくなっているのではないでしょうか。「大きな凹穴」は「俵転がしの穴」と呼ばれていました。かつてその上に泉藩の米倉があり、この穴を転がして船に積んだ為こう呼ばれていましたが、今では跡形もなく削られてしまいました。
大正末期に小此木忠七郎が調査した玫瑰(マイカイ)自生地の記録『磐城海岸ニ於ケル玫瑰自生地ノ現状』には、「泉村大字下川字前ノ原」と「小名浜町大字高山」が自生地として報告されています。マイカイとハマナスは正確には同じではありませんが、ここではハマナスにこの漢字を当てているようです。以下、引用しましょう。
沙漠ト耕地ノ間ニ連ナル沙丘ノ内側面ニ大群落ヲ散在シ、約一里ノ延長中、断続六ケ所アリ、最西端ハ八帆入川口ノ沙漠ニ達シ、字千畳敷ト称スル大群落ヲ終点トス。此自生地ハ模範的ノ型ヲ有シ保存最必要ナリ。
ハマナスは北海道に多く、太平洋側の南限は茨城県、日本海側は鳥取県となりますが、北の風土を象徴する植物だと云ってよいかと思います。ハマ(浜)に育ち、ナシ(梨)に似た果実をつけることからハマナシ(浜梨)と名付けられたもので、ナス(茄子)とは全く関係ありません。ナシがナスになるという発音変化からも、この植物が「北」のものであるとということが感じられます。
剣浜には「千畳敷」と呼ばれたところがあり、そこの大群落が終点になっていました。途切れるところもありましたが、延々4キロにも及ぶハマナスの群生です。自生地として模範的な状態であり、保存が最も必要だと小此木氏は強く訴えています。しかしこの主張も空しく、大群落は砂浜もろとも、完全に埋め立てられてしまいました。
近年私は、あることを夢想しています。それを説明する都合上、意図的に脱線しますが、もう25年程も前、私は四万十川の源流点付近で、あるお寺に居候していました。その頃のことです。
当時高知県は橋本大二郎知事でしたが、渡川(四万十川)が日本を代表する清流と考えられていたことから、河川環境を考える国際的なシンポジウムが開催されることとなりました。ところが改めて調査したところ、国内の比較でも、水質が際立って良いというわけではないことが分かって来たのです。
慌てた県は急遽、河川環境を元の状態に近づける前例のない工事を発注しました。しかし受けたゼネコンも、川底や河岸をコンクリートで固めたことしかなく、元の環境に近づける工事など見当もつかないのです。二次受け三次受け四次受けとたらい回しにされ、誰でもいいからやらないかと、投げやりな依頼がどんどん川を上ってきました。
元造園業のケンちゃんが「それなら」と引き受けたのですが、このケンちゃんの仕事ぶりが大変に素晴らしかった。まずは年寄りの話を聞きまくったんですね。昔あそこにこれくらいの大きさのこんな木があったとか、あの中洲でイタチを見たことがあるとか、あの小さな沢にアマゴが上ってきてたんだとか、そういう話を聞くと、ケンちゃんは川を一望する場所に立って瞑想し、そしてとにかくその状態に復旧しようとするのです。
同じ大きさの同じ木を植え、イタチが通う条件を満たした道を作り、アマゴが上ることができる河道を準備する。やがてイタチの糞が見つかったとか、無事にアマゴが上って来たとか朗報が届き、地域の機運も高まってくる。これをレポートにまとめ、シンポジウムでプレゼンテーションしたケンちゃんは、河川環境保護の世界的権威に「彼の仕事はパーフェクトだ」と絶賛されます。大変胸のすく話です。
話を戻しましょう。私が生きている間はまず無理でしょうが、そう遠くない未来、海浜環境の多くを失ってしまった人類は、その豊かな生態系を取り戻そうとする段階に入ると思われます。わが国でもまずモデルケースを作らねばならず、どこかで実証実験的な工事を行うはずです。全国各地の海岸線から候補地を絞り、慎重に条件を考察することでしょう。
さて、その時です。小名浜から剣浜の6キロの海岸線はどうでしょうか。首都圏から近く、日本一晴れの日が多く、夏は冷涼、冬は温暖。かつては白砂青松の名勝でした。金さえ落ちるなら地元は懸命に誘致運動をするでしょう。いかにも選ばれそうではないですか。これが私の妄想です。
以前、東京から来たある分野の研究者を案内した時に、その方はかなりの博識であるにも関わらず、仁井田川や夏井川の河口付近が大きく蛇行し複雑な地形を見せることに大いに驚き、盛んにその意味を見出そうとしていました。御存じのように、よほど特殊な地形でもない限り、海に一直線に出る自然河川はありません。人間は、河川というものの自然状態すら忘れ始めているのかもしれないのです。
震災時、給水車に水をもらいに来た人が持参したビニール袋一杯に水を入れ重くて運べなかった、というエピソードを知人から聞いたことがあります。生き物にとって最も重要なもののひとつである「水」の質量すら、感覚として分からなくなっているのです。笑うに笑えません。いつか人間は水が低きに流れることすら忘れるのかもしれない。一事が万事です。
滝尻川流域の湾は、かつて富ケ浦と呼ばれていたという言い伝えがあります。東北では珍しい南面する海岸線で、東に小名浜、西に剣浜。遠く湯ノ岳のゆるやかな稜線。日本で最も晴れの日が多く、夏冷涼にして冬温暖。阿武隈おろしの風も適度に乾燥して心地よく、白砂青松の絶景の中にハマナスの大群生が見える。ここでは北の植生と南の植生が入り混じり、アカウミガメが寄せ、クジラが回遊し、目の前には潮目の豊かな漁場が広がる。それがこのハマのかつての姿でした。
私の祖父は最晩年、隠居の居間に、埋め立てられる前の小名浜の姿を描いた油彩を飾っていました。何の変哲もない、ひとつも面白くない絵でしたが、今では祖父の気持ちが少し分かる気がします。
小名浜出身の作家、吉野せいの短編「水石山」にも印象的なシーンがあります。いつも目にしながら一度も登ったことのない水石山に登りたいというせい。その願いを素気無く断る夫、混沌。せいは家を飛び出し、行く当てもなく徘徊しますが、やがてつまらなくなり、奮発してサンマを買って帰宅します。しかし混沌がいない。しばらくして帰って来た混沌は、せいを探し回っていたと意外なことを云う。「水石山さ行って来たの」と問うせい。それに答える混沌。以下その場面を引用します。
「いいや海だ」
意外だった。
「新舞子の砂浜だ。ひとりならきっと海さいぐにきまってると思ったからな」
「海ね」
「新舞子の海は広い。きれいだったぞ。豊聞の燈台を右手に、砂浜が広い。松原が見事だ。いまだに昔のままだかんな。港化した小名浜とはちがう。おめえはきっとひとりで砂丘にすわって海を眺めていると俺は思った。何としてもそんなふうにな。何十年ここで働れえて土塗れになりきっても、おめえの性根にはまだ海が残っている」
混沌は市内の内陸部、平窪という農村地帯の生まれです。二人は結婚し、市内好間の菊竹山というところに開拓者として入りました。来る日も来る日も土と向き合う暮らし。しかし混沌は、せいの中にいつまでも海を見ていました。それはハマに生まれ育った人間の、抜きがたい精神なのでしょう。
現在60歳以上の方はこの地のハマの記憶があるはずですが、私自身は、物心ついた頃、既にすっかり埋め立てられていました。みなさんのほとんども、そんな昔のことは知らない、むしろこの臨海工業地帯こそが私たちの故郷だ、という感覚が強いでしょう。それは十分に理解できます。
しかし、私は感じるのです。この富ケ浦には、ハマの巨大な亡霊がいまだに徘徊し、それがふとした瞬間に、私たちを魅入る。それはおそらく、未来永劫逃れられない、海辺の業なのです。
参考文献
小此木忠七郎『磐城海岸ニ於ケル玫瑰自生地ノ現状』1922
吉野せい『洟をたらした神』1975
下川郷土史調査委員会『下川郷土史』1982
岡部泰寿『泉の風土と歴史』1983
水澤松次『新編泉風土記百選』1990
いわき地域学會『藤原川流域紀行』1991
いわき地域学會『いわき浜紀行』2002
下川を考える会『ふるさと下川を知ろう』2009
写真提供
江尻慎一郎
安島勤
磐城国 海の風土記(全10回)
目次
vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画
vol.2 ウミガメ〜彼方とヒトをつなぐもの
vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性
vol.4 神白~ちはやぶる神の城から
vol.5 住吉~極東の海洋都市
vol.6 湯ノ岳~小さな霊峰の幽かな息づかい
vol.7 ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体
vol.8 剣~ハマの亡霊が魅入るもの
vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市
vol.10 クジラ~沖を行くものの世界(完結)
イベント名 | 剣地区と小名浜臨海工業地帯 |
場所 | いわき市泉下川地区内 |