いわき市の郷土史研究家、江尻浩二郎さんによる新連載「磐城国 海の風土記」。今回は第5回目。今回は、住吉神社のある、いわき市住吉地区に関する考察です。
磐城国 海の風土記 vol.5
住吉~極東の海洋都市
文章:江尻浩二郎
「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」は、延長5年(927年)に完成した『延喜式』の巻九および巻十のことで、当時朝廷から「官社」として認識されていた神社の一覧になります。これに記載された神社は全国に2861社あり、これを「延喜式内社」または「式内社」と呼び慣らわしています。
その内、陸奥国には100社あって、磐城郡には7つの神社が記載されていました。大国魂神社、二俣神社、温泉神社、佐麻久嶺神社、住吉神社、鹿島神社、子鍬倉神社で、これらが当時、朝廷から大変重要視されていたことが分かります。
今回は、その中の一つ、小名浜住吉に鎮座する住吉神社についてのお話です。以下、この住吉神社を便宜上「陸奥国住吉神社」と表記することにしましょう。いわき市神社総代会『いわきのお宮とお祭り』には「全国住吉神社七社の一社に数えられているところの関東東北の中でも古社である」と、さほど感慨もなく書かれていますが、私はこれがとんでもないことだと思っているのです。
『延喜式』に記載されている住吉神社は全国でわずかに7社。その一つであるというだけでも確かに興味深いですが、問題はその分布にあります。7社の鎮座地は対馬/壱岐/筑前(福岡市)/長門(下関市)/播磨(兵庫県加東市または小野市)/摂津(大阪市住吉区)/陸奥(小名浜住吉)です。下に挙げる地図を見てみましょう。「関東東北でも」という記述ではあまりに精度が低い。小名浜住吉だけ完全に浮いているのです。
ここで住吉神社一般について確認しておきましょう。煩雑になるのを避けつつ、ごく簡潔に要点のみを記します。①祭神は住吉大神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)および神功皇后の四座。②航海守護神とする信仰が最もよく知られる。③同様の航海守護神である宗像大神が宗像氏の氏神であるのに対し、住吉大神は特定氏族の氏神ではないと考えられている。④遣唐使との関わりが大変に深い。
住吉神社はまず第一に海上交通の安全を守る神であり、特に外洋航海の守護であると考えられます。遣唐使はその出発にあたって、必ず住吉大社(大阪市住吉区)での奉幣を行い、航海の無事を祈ったことが知られています。また遣唐使船はその多くが四艘一組で「四つの船」とも呼ばれており、それは住吉大社の四つの宮の数を踏まえていたとも言われます。
住吉大社の三宮から一宮は、西を向いて縦一列に並ぶ大変珍しい配置です。四宮(神功皇后)は三宮の南側にピタリと寄り添っていますが、これは軍船の陣形にも例えられ、まさに四艘の船が西の海に向かって進んでいく姿を思わせます。
話を戻しましょう。日本史学者の岡田精司は、延喜式の住吉神社の分布に朝鮮航路との関連を指摘しました。住吉神社が国家的機関に位置づけられたとし、その航路の要所に配置されたとする説です。陸奥国住吉神社のみがその航路から大きくはずれてしまう訳ですが、一つの魅力的な補助線として心に留めておきましょう。
陸奥国の住吉神社とは
さて、いよいよ陸奥国住吉神社について見ていくことにします。御神体は「磯山(いそやま)」と呼ばれる、標高16メートルほどの岩山です。現在の海岸線からは4キロメートルほど離れていますが、この岩山には海蝕の跡がよく残り、古くはこの周辺が海であったことが分かります。縄文の昔、この湾内にあった小さな島が神格化された訳です。
社伝によれば、「西暦三世紀、景行天皇の御代に時の大臣・武内宿弥(たけのうちのすくね)が、勅命を奉じて東国巡視の折この地が陸と海との要害の地であり、東北の関門に当たるので航海安全と国家鎮護のため東北総鎮守として北向きに奉られた。」とされています。あまり特色のない記述で大変残念です。
ご存知のように、景行天皇の在位年についてはその実態が明らかでなく、武内宿弥は理想の忠臣をイメージした伝説上の人物とされています。後半の記述にのみ注目し、蝦夷や粛慎(みしはせ)など北方の集団との勢力争いを考えてみることにしましょう。
正史を見ると、斉明天皇(655年~661年)の時代になって盛んに北方へ遠征していることが分かります。日本書紀には越の国守・阿倍臣による蝦夷・粛慎征討についての記事が実に6件もあるのです。
和銅2年(709年)にやや大規模な反乱がありましたが、その後、全面的な戦闘状態はなかったようです。宝亀5年(774年)になると大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)が再び征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に「三十八年戦争」と呼ばれる戦乱の時代となりました。
平安時代前期(9世紀)になると、蝦夷に対する直接の征服活動は収まり、朝廷の支配領域は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止しました。その後大きな動きがないまま、延喜式の成立時期を迎えます。
さて、以上の中に、陸奥国住吉神社に関する直接的なヒントは見つけられませんでした。ここでは蝦夷征討の動きが盛んだった時期とそうでなかった時期を意識するに留め、先に進むことにしましょう。
住吉神社に関する最も重要な文献として「住吉大社神代記」も見ておきましょう。これは住吉大社(大阪市住吉区)の神官が大社の由来を神祇官に言上したものです。天平3年(731年)7月3日の日付で2名の撰者の名が挙げられており、さらに延暦8年(789年)8月27日の日付で8名の署名が書き加えられていますが、後世の作との見方もあり、この点ははっきりしません。
この書では、住吉大神の宮は9か所にあるとして、住吉大社のほかに、摂津国西成郡(大阪市中央区)、摂津国菟原郡(神戸市東灘区)、播磨国(兵庫県加西市)。長門国(山口県下関市)、筑前国(福岡市博多区)、紀伊国(不明)、大唐国(不明)、新羅国(不明)の8か所を挙げています。
ここに陸奥国住吉神社の名はありません。ただ、住吉信仰にとって大変重要であるはずの対馬や壱岐もなく、これをもって陸奥国住吉神社の成立年を考察することは難しいでしょう。余談になりますが、唐と新羅も挙げられていますね。大変興味深いですが、そのような事実は未だ確認されていないようです。
思考を広げるため、ここで『常陸国風土記』を参照してみます。これは和銅6年(713年)に編纂され、養老5年(721年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌です。この中の「香島の郡」の条に以下の記述があります。
軽野以東 大海浜辺 流着大船 長一十五丈 濶一丈余 朽摧埋砂 今猶遺之 謂淡海之世 擬遣覔国 令陸奥国石城船造 作大船 至于此着岸 即破之
軽野の東、大海の浜辺に、流れ着いた大船があって、長さは十五丈、内幅は一丈余りである。朽ち砕かれて砂に埋もれ、今もなお残っている。淡海の世に国覔(くにまぎ)に遣わそうとして、陸奥国石城の船大工に大船を作らせたところ、ここまで来て岸に着き、ただちに壊れたという。
大変に魅力的な内容です。「今猶遺之」と書かれているため、実際のこの巨大な船の残骸は執筆時にまだ残っていたと考えられるでしょう。記述の信憑性も高いものと思われます。言い伝え部分に関しては筆者の潤色であるとする見方もありますが、ひとまず順番に文言を見ていきましょう。
地名「軽野」は現在の茨城県神栖町から波崎町あたりだと考えられています。その東、つまり太平洋に面した浜に大船が朽ち果て、砂に埋もれているというのです。その大きさは、長さが約45メートル、内幅が3メートル余り。とんでもない大船です。かなり細身ですが外幅はどれくらいあったのでしょうか。
次に「淡海之世」ですが、これは天智天皇の御代になります。天智天皇というのは大化の改新で出てくる中大兄皇子ですね。彼は皇太子のまま即位せずに政務を執行したので暦が分かりづらくなりますが、ここでは斉明天皇が崩御した斉明7年7月24日(661年8月24日)から天智天皇崩御の天智10年12月3日(672年1月7日)までとしておきます。常陸国風土記成立期から見れば50年ほど昔ということになります。
次に「国覔」ですが、これがやっかいです。素直にとれば「国覔」とは「天子が都とするに足るよき地を求めること」で、7世紀末以前、都が天子一代限りとされていた時代には大変重要な意味を持っていました。天智天皇で言えば、斉明6年3月19日(667年4月17日)近江大津宮(大津市)へ遷都するまでの時期を指しているはずです。
実はこの頃は、朝鮮半島の情勢が大変緊迫していました。百済が唐・新羅に滅ぼされたため、斉明天皇と中大兄皇子は百済救援を指揮するために筑紫まで赴きます。しかし斉明天皇がその地で崩御。さらに天智2年7月20日(663年8月28日)白村江の戦いで大敗を喫してしまいます。その後、両国との関係改善のため頻繁に遣唐使を送りつつ、近江大津宮への遷都を行い、同7年1月3日(668年2月20日)ようやく即位しました。
この状況で「国覔」が何を指すのかというのはなかなか判断が難しいところです。論が進まず申し訳ありませんが、ここでも一旦先に進みましょう。
次に「陸奥国石城」ですが、天智天皇の時代の「陸奥国石城」といえば「陸奥国石城評(こおり)」であり、その範囲は今の大熊町からいわき市まで、但しいわき市南部の菊多(評)は除くことになります。石城評と菊多(評)の境は、はっきりしたことは分かりませんが、明治以降の区分では滝尻川(藤原川)を境としていますので、ここでは同様にその周辺だと考えておきたいと思います。陸奥国住吉神社は滝尻川の左岸ですから、まさに境界に鎮座していることになりますね。
その石城のどこかで、45メートルもの大船が作られました。そこでは、それだけの木材が手に入り、それだけの技術集団がいたことになります。
次に「作大船」ですが、造船に関する記述は古事記や日本書紀などにも散見されます。その内、造船の目的が明確に記されているのは「日本書紀」斉明天皇6年(660年~661年)の記事で、新羅征討のための船を駿河国に作らせています。その記述を以下に挙げます。
是歲 欲爲百濟將伐新羅 乃勅駿河国造船 已訖 挽至績麻郊之時 其船夜中無故艫舳相反 衆知終敗
この年、百済のために新羅を討とうとし、すぐに駿河国に命令を出して船を作らせた。作り終えて、続麻郊(おみの、伊勢市祓川河口付近)に曳いて到着した時に、その船は夜中に理由もなく、船尾と船首が反対になってしまった。人々はこの戦いがついには敗れることを知った。
もう一つの造船の例を見てみましょう。少し遡って孝徳天皇の時代。白雉元年(650年~651年)には安芸の国に百済船を二艘作らせています。
遣倭漢直縣・白髮部連鐙・難波吉士胡床、於安藝國、使造百濟舶二隻。
倭漢直縣、白髮部連鐙、難波吉士胡床(の3名)を遣わし、安芸国で百済船二艘を造らせた。
この船は白雉4年(653年~654年)の第二次遣唐使で用いられたと考えられていて、第一船には121人、第二船には120人乗り込んだと記録がありますから、かなりの大船であったことが推測されます。
残念ながら、遣唐使船がどのような船であったかについては、ほとんど資料が残っていません。平成22年開催の「平城遷都1300年祭」で原寸大の遣唐使船が復元されましたが、あれは、557名が四艘に乗り込んだ記録から大きさを推定し、絵巻「吉備大臣入唐絵詞」に描かれた形状を参考にして作ったそうです。その長さ約30メートル、幅は8メートルほどでした。
さて、一通り文言を追いましたので、改めて造船の目的について考えてみましょう。
蝦夷征討のためでしょうか。「国覔」という文言の射程には入りそうですが、天智天皇の時代になると、朝鮮半島の情勢が大変緊迫しており、北方への侵攻は小休止となっているようです。また、石城で建造した船をわざわざ南に進めるのもやや不自然のように感じます。
新羅征討のためでしょうか。これも「国覔」という文言の射程に入れられなくもないかと思います。情勢を考えれば、最も急を要するものは新羅征討であり、660年~661年に駿河国に作らせた船が伊勢に向かっているという記述とも親和性が高いでしょう。これが最も妥当な考え方のように思います。
以下もう一つ。建造の目的として遣唐使船の可能性を挙げたら笑われるでしょうか。この時代、653年から669年までのわずか16年間に実に6回、天智天皇の時代だけでも3回の遣唐使が送られています。しかもその船がどこで造られたかということは、前述の安芸国に作らせた第二次遣唐使を除いて一切不明です。石城の大船が(やや細身であるものの)45メートルという巨大さであったことも気になります。
そしてなにより、後年この石城の地に、遣唐使と大変縁が深い住吉神社が祀られているのです。朝鮮航路との関連が指摘される延喜式内住吉七社の中で、ここ陸奥国住吉神社の位置はあまりにも異様な存在感を示していないでしょうか。
もう一つの文脈として木材のことを挙げておきたいと思います。古代造船の建材としてはクスノキが重要です。クスノキは暖地系の常緑高木で、大きいものは20メートル以上。いわき市内にはクスノキの大木が多く、理学博士の湯澤陽一によれば、その自生北限はいわき市小浜町であるとされています。材料調達という面でも、石城は大変に好ましい土地だったのではないでしょうか。
さて、勢いに任せて石城の大船について考えてきましたが、ここからは少し気分を変え、陸奥国住吉神社の周辺を歩いてみましょう。このあたりは中世以降の歴史が大変に深い土地で、その概略に触れるだけでも大変な紙幅を要しますが、テーマを陸奥国住吉神社に絞り、かつてここにあったかもしれない古の海洋都市に思いを馳せてみましょう。
−あったかもしれない古の海洋都市
兜神社。陸奥国住吉神社の850メートルほど東方。兜を伏せたような10メートル足らずの岩山を刳り抜き社殿としています。その昔、湾の西に陸奥国住吉神社の磯山、東に兜神社の岩山があり、その相対する姿から「相子島(あいこじま)」と称されたと言われています。現在でもここの地名は相子島。神社東側には縄文時代後期から弥生時代前期の貝塚があり、古くから生活が営まれていたことが分かります。
塚前古墳。前方後円墳であることは古くから分かっていました。宅地造成のため初めて調査が入ったのは2016年10月。翌年5月に、最大全長120メートル、古墳時代後期としては東北最大、東日本でも十指に入る規模だという報道がされ、同時期の東北史を再検討する必要があると話題になりました。石城の大船が作られる100年ほど前のことです。
禅長護国禅寺。大同2年(807年)徳一大師の開創と言われる名刹です。徳一は最澄と重要な論争をしたり、空海に対して疑義を提示したことなどで知られる高僧で、筑波山中禅寺や会津の慧日寺など、常陸から陸奥南部にかけて多くの寺院を建立したとされています。磐城にも徳一開基とされる寺院が数多くありますが、この禅長護国禅寺がユニークなのは、徳一が「海路」でやって来たという言い伝えがあることです。ここまで読んできた皆さんにはもう不思議はないでしょう。
さて改めて、陸奥国住吉神社を訪れましょう。蝦夷を睨んで北向きに祀られたとされる当社ですが、現在は東を向いていますね。これは貞享元年(1684年)磐城平藩内藤家においてお家騒動などがあり、その原因が磐城平城を睨んで建つ当社にあるとされ、社殿の向きを東向きに変えられてしまったのです。その際内藤家より幅五間、長さ二百間の参道が寄進されました。この参道沿いを新町といい、元の北側参道沿いを大町といいます。
本殿外陣に龍の彫り物が納められていて、以下のような言い伝えがあります。昔、日照りが続き人々が大変困っていました。住吉大神を御輿に乗せ浜へ下り、一方神社に残った人々は龍を持ち出して雨乞いをしたところ、にわかに大雨となって大洪水となりました。御輿は帰途、小名浜大原あたりで洪水に飲まれ、人々は御輿を放り出し、ほうほうの体で逃げ帰ってきました。
村中が大騒ぎとなりましたが、しばらくすると数十頭のイノシシが御輿を担ぎ、泳いで持ってきてくれたそうです。龍を社殿に納めると雨は上がり、洪水も収まりました。この出来事以来、村の人々はイノシシを決して食べません。龍を決して外に出しません。また神輿も外に出さないこととされていて、今の祭礼に出る子ども神輿は住吉の神を乗せない空神輿なのだそうです。また以前大人が担いでいた大神輿は摂社北野神社のものだったといいます。面白いですね。
大変長くなりました。最後にもう一つ。私の大好きな話を挙げて、この稿を終わりたいと思います。
磯山の南側には大きな船が埋まっているという言い伝えがあります。その昔、荒れた海に出た船が磯山にぶつかり沈んだのだそうです。その上で飛び跳ねると、小さな子どもでも何とも言えない鈍い音がしたと言います。その場所は摂社足尾神社の石塔と鬼子母神が祀られている大岩の間あたり。現在は道路が拡幅され、すっかり舗装されてしまいました。もう誰も、その音を聞くことはできません。
参考文献
竹原公一『住吉の文化財』年不詳
佐藤孝徳『いわきの御寺さん』1991
いわき地域学會『藤原川流域紀行』1991
植垣節也訳・校注『新編日本古典文学全集5風土記』1997
小島憲之ほか訳・校注『新編日本古典文学全集4日本書紀③』1998
いわき地域学會『いわき浜紀行』2002
大須賀筠軒、夏井芳徳翻刻『磐城誌料歳時民俗記』2003
真弓常忠『住吉信仰 いのちの根源、海の神』2003
いわき市神社総代会『いわきのお宮とお祭り』2009
岡田精司 『新編 神社の古代史』2011
いわき市教育委員会・公益財団法人いわき市教育文化事業団『塚前古墳-藤原川流域における後期前方後円墳の調査概報-』2017
いわき市教育委員会『いわき市の文化財』2017
磐城国 海の風土記(全10回)
目次
vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画
vol.2 ウミガメ〜彼方とヒトをつなぐもの
vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性
vol.4 神白~ちはやぶる神の城から
vol.5 住吉~極東の海洋都市
vol.6 湯ノ岳~小さな霊峰の幽かな息づかい
vol.7 ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体
vol.8 剣~ハマの亡霊が魅入るもの
vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市
vol.10 クジラ~沖を行くものの世界(完結)
イベント名 | 住吉神社 |
場所 | 福島県いわき市小名浜住吉1 |