いわき市の郷土史研究家、江尻浩二郎さんによる新連載「磐城国 海の風土記」。今回は第4回目。いわき市小名浜神白(かじろ)を取り上げます。
磐城国 海の風土記 vol.4
神白~ちはやぶる神の城から
文章:江尻浩二郎
『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という平安時代中期、承平年間(931年〜938年)に編纂された辞書があります。それによれば、当時の磐城郡には、蒲津・丸部・神城・荒川・私・磐城・飯野・小高・片依・白田・玉造・楢葉と12の郷が置かれていました。この中の神城(かしろ)は現在の神白(かじろ)に通じると考えられていて、もしそうだとすれば、千年以上も続く大変由緒ある地名だということになります。
現在の神白は、神白川流域の非常に細長い谷で、小名浜の市街地とは低い丘陵で分けられています。旧村名で言えば上神白村と下神白村に当たり、狭義の小名浜四ヶ村には含まれません。
神白の県道を走っていて、山の上に見える5本の鉄塔が気になったことはありませんか。あれは漁業のための無線塔なんです。漁業無線局は日本各地にあって、操業効率化のための情報連絡、緊急時における救助通信、自然災害時における非常無線通信などを行っています。
大正13年、小名浜古湊にあった福島県水産試験場内に小名浜漁業無線局が開局。昭和26年、小名浜小屋の内に移転。昭和48年、現在地に福島県漁業無線局として開局しました。震災後は、被害の大きかった宮城県漁業無線公社からも委託を受け、さらに一昨年(2016年)4月、県内相双地区とも委託契約を結んだため、現在、やりとりする漁船の数は我が国で最多となっています。特殊な事情もありますが、大変に重要なインフラです。ちなみに「漁業無線局」というものは世界で日本にしかないらしく、「世界一の漁業無線局」と云ってしまっても、まんざら嘘ではないでしょう。
福島県無線漁業協同組合のWEBサイトには交信によって得られた「入出港船情報」が日々掲載されています。例えば今年5月23日の情報を見てみましょう。
2018/05/23入出港船情報
【官庁船】
いわき丸 0800時小名浜発調査中調査終わり1420時小名浜入港
【実習船】
宮城丸 正午N14.19W162.09CO80/9.3NE6BC12気温26.5水温27.2」入れず適水中」昨釣数2115」バチ16メカ1計17尾約0.5トン」サワラ1ピア6
福島丸 N14W160変わりなく実習中
【遠洋鮪延縄船】
第128海形丸 24日夕刻ヌーメア入る
第38昭福丸 続航中明日04時頃ベノア入る
【近海鮪延縄船】
第7勝漁丸 昨揚げ後より帰航中1500時頃入る
【トロール船】
第68福吉丸 22日1000時(現地時間)カナダベイロバーツ港入港
【旋網船】
第118海王丸 帰航中明日10時焼津に入る
第3常磐丸 山川向け帰航中27日朝入る予定
第1寿和丸 野島沖調査に終わり1830時小名浜に入る
第81共徳丸 昨1700時気仙沼発唐桑沖2回操業、オカズに終わり0510時気仙沼入港
第8共徳丸 昨夕刻石巻発気仙沼沖2回僅かに終わり0630時気仙沼入港
北勝丸 昨日野島崎沖僅かに終わり今朝より凪悪く水揚げの為石巻向け中今夜半入港予定
いわき海星高校の実習船「福島丸」は北緯14度西経160度で「変わりなく実習中」。太平洋のまん真ん中ですね。そして見てください。ヌーメア、ベノア、ベイ・ロバーツ、焼津、山川、気仙沼、石巻と錚々たる港町の名が並びます。海の民が感じているもうひとつの世界。なんだかワクワクしませんか。
「僅かに終わり」「オカズに終わり」などと、漁の良し悪しも報告されています。オカズというのは全国的な用語ですが、「オカズにする程度の漁しかないこと」=「ほとんど漁獲がないこと」を表します。残念ですね。地元小名浜の「第1寿和丸」は野島沖で調査。時期的にカツオの群れはまだそのへんなのでしょう。
さて、上記の「共徳丸」という名は、もしかしたら皆さんの記憶にあるかもしれません。小名浜「儀助漁業」の船名です。最大の震災遺構となる可能性があったあの船は「儀助漁業」の船でした。
震災時、気仙沼で補修作業中だった第18共徳丸(全長60メートル、総トン数330トン)は、津波によって港から750メートルも離れたJR鹿折唐桑駅前まで運ばれてしまいました。周囲のガレキが取り除かれても、あまりに巨大なため処置できません。儀助漁業は当初から解体する意向でしたが、気仙沼市が「震災遺構」として保存したいと申し入れ、その後2年間、市と住民でその是非について話し合いが続けられました。しかし全世帯を対象としたアンケート調査で70%近い方が「保存の必要なし」という回答であったため、市は計画を断念することとなり、2013年9月9日から約5000万円をかけた解体作業が始められました。
遺構保存の是非は大変に難しい問題です。広島の原爆ドームも、当時は保存に反対の声が大きかったといいます。平和記念公園の設計で明確に位置付けられ、その存在が大きくシンボライズされたものの、60年代に入って再び存廃の議論が活発になります。風化が進んで崩落の危険が生じていたことと、一部の市民からの「見るたびに惨事を思い出す」という根強い意見があったためです。
議論の流れを変えたのは、市内の大下学園祇園高等学校の生徒・楮山ヒロ子さんの日記でした。彼女は1歳で被ばくし、急性白血病のため16歳で亡くなりました。「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と日記に書き遺し、これに感銘を受けた平和運動家らが保存を求める活動を始め、とうとう1966年、広島市議会が永久保存を決議するに至ったのです。
ご存知のように原爆ドームは、被爆50年にあたる1995年に国の史跡となり、翌1996年12月には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定されました。遺構は言うまでもなくその将来においてこそその価値を発揮するものです。解体か保存かの性急な二択ではなく、やはり「保留」という選択肢も柔軟に考えられないかと思うのです。
無謀かもしれませんが、先の第18共徳丸について「当分の間、巨大な構造物で全体を覆ってしまう」という可能性はなかったでしょうか。直接目に触れることをなくし、時を待つことはできなかったでしょうか。解体にも約5000万円が必要だったのです。そのようなことを夢想したくなるほど、震災遺構として十分なポテンシャルを持つ案件だったと私は個人的に考えます。
いわき市で「震災遺構」保存が検討されたものに、豊間中学校の校舎があります。沿岸部、平薄磯地区にある同校は東日本大震災の津波で大きな被害を受けました。保存するかどうかの検討が市と住民の間で行われましたが、2014年12月、住民の意向が尊重される形で校舎の解体が決定されました。結論に至った背景にはやはり「見るたびに津波を思い出してつらい」という住民たちの複雑な思いがあります。
話を神白に戻しましょう。私たちは今、福島県漁業無線局について考えているところでした。地元でもほとんど知られていないのですが、実は、この漁業無線局の敷地内に2基の古墳が並んでいるのです。名前は千速古墳(せんぞくこふん)と云います。残念ながら、学術的な調査は行われておりません。
標高約54mの丘陵の先端に「円墳」が並んでいます。規模はそれぞれ、高さ4m、直径20mほど。神白川流域を支配していた有力者の墓でしょうから、神城(かしろ)という地名に関係するのかもしてません。
ちなみに千速(せんぞく)というのは正にここの地名なのですが、訓読みすれば「ちはや」ですね。「ちはや」は巫女さんの衣装、「ちはやぶる」はみなさんご存知の「神」にかかる枕詞。字面の響き合いも非常に心地よいです。
縄文の昔、この無線局が立つ丘陵は大変に細長いミサキ(岬)でした。掘立柱建物跡や、弥生式土器が検出されるなど、周辺には様々な時代の遺跡が20ほども確認されており、また現在、この2基のうち西側のものの墳頂に小さな石祠があって、「権現様」と呼ばれ地域住民の信仰を集めています。この丘は地元では「権現山」と呼ばれているのです。やはり古代ミサキの霊性は引き継がれていくのでしょうか。
さて権現山を下り、神白川沿いを進みましょう。神白川にかかる神白橋です。私は小学生の頃、毎週日曜、釣りに行っていましたが、子どもが手軽にできる海釣り(岸壁釣り)は投げてしまえばやることがなくとても退屈なものです。私はこの橋の下で鮒を釣るのが好きでした。釣りは「鮒に始まり鮒に終わる」と云いますが、竿、糸、浮、錘、針という基本的な道具は子どもでも揃えやすいですし、ポイントは身近にたくさんある。「合わせ」が面白い(難しい)のも魅力のひとつで、私もやはり「鮒に終わる」のかも知れません。ただ、このポイントは川岸が固められ、足場がなくなってしまいました。残念です。
川沿いの道を下っていくと、川向こうの立派なイチョウの木の陰に赤いお堂が見えます。薬師堂です。県道からは全く見えないので、ほとんど知られていないと思いますが、ここは真言宗の医王院というお寺でした。明治元年、神仏分離の影響で永崎にある蓮乗院に合併されています。薬師如来はごくごく簡単に言うと病気から守ってくれる仏様。日本でも大変に流行した仏様です。
お堂の裏にまわってみましょう。よく見ると岩肌に仏様がいらっしゃいませんか。これは「磨崖仏」と云って、実は小名浜エリアには素晴らしい磨崖仏がたくさんあるのです。遍照院や久保のものが有名ですが、清水の地蔵堂や馬落前薬師堂裏、そしてここ下神白の薬師堂裏もおすすめです。すぐに確認できるもので三体。かなり摩耗しているのでどのような仏様なのかはっきりしませんが、早い段階で覆いなどが施されていれば、古の人々の祈りをより深く感じられたかもしれません。
日本の磨崖仏の6~7割は大分県にあると言われています。地質的にはこのあたりも似たような砂岩ですし、中世磐城は仏教が非常に盛んだった地域ですから、そういう意味では条件が揃っていたのでしょう。
あと、個人的に思うことなのですが、このへんでは「薬師堂の裏に磨崖仏がある」という事例が多いように感じます。磐城で薬師堂を見かけたらぜひ裏も覗いてみてください。ちなみに江名の真福寺にあるものは薬師堂の「下」にあります。非公開なので拝むことができないのですが、最近出版された青木淳「福島の磨崖仏 鎮魂の旅へ」にはその写真が掲載されていました。ぜひご覧になってみてください。
さらに川を下ると、右手に県立小名浜高校、左手に県立いわき海星高校が見えてきます。いわき海星高校は旧小名浜水産高校です。水産関係の学科がある高校は全国に48ありますが、福島県ではここだけになります。余り知られていないのですが、海星高校には「専攻科」という高校卒業後2年間の専攻課程があり。海洋科、無線通信科、機関科の3学科があって、更に高度な知識や技術を学んでいます。無線通信科からは、先程の漁業無線局に勤めるような人材が出てくるかもしれません。
震災時、いわき海星高校では、津波が一階部分を突き抜けました。生徒は入試関連日のために休みで、教職員約50名は全員近くの小名浜高校に避難して無事でした。校舎は使えなくなりましたので、その後小名浜高校の校舎を間借りしておりましたが、平成26年9月、復旧工事が無事落成。その後、校舎周辺の堤防工事や川沿いの水門工事も終わり、学習環境はほぼ震災前の状態に戻りつつあります。
さて海岸へ出ましょう。ここは神白海岸(または下神白海岸)と呼ばれています。隣の永崎海岸の陰であまり目立ちませんが、自然地形も比較的よく残り、個人的に非常に好きな海岸です。
私が子どもの頃(昭和50年代初め)、ここには多くの廃船が打ち棄てられていて、それはまるで船の墓場のようでした。草野日出雄『写真でつづる実伝・いわきの漁民』に掲載されている写真では、砂に埋もれるいくつもの廃船が確認できます。私が子どもの頃は正にこのような景観でした。
同書によれは、昭和の初め頃、この海岸は座礁の名所だったそうです。ガス(海霧)が切れた時に沖から見る灯りの感じが、小名浜と神白はよく似ていました。また小名浜と神白の凪(潮の流れ)も実によく似ていたそうです。そのため、小名浜だと思って近づいてみると神白で座礁してしまうということがよくあったとか。
現在は一艘も見当たりませんが、実は、ここにあった廃船を、みなさんは今もある場所で観ることができます。蔡國強さんの代表作のひとつである「廻光~龍骨」はここ神白海岸から掘り出されたものなのです。
いわき万本桜プロジェクト『宙から桜が見えますか』によれば、1994年2月、蔡さんと志賀忠重さんが廃船を探し回っていると、志賀さんの小名浜の友人、佐藤進さんが「砂浜になんぼでもある」と教えてくれたそうです。すでに外は真っ暗でしたが、車を走らせ、懐中電灯を手に浜に降りると、深く埋もれた廃船がまだ十艘以上あったとか。
それはかつての北洋サケマス船でした。まだ木造船が多かった頃、不要になった船はエンジンなどを抜き取り、木造部分は重りと共に沖に沈められたのです。しかしそれらはいつの間にか潮流の関係でこの浜に流れ寄り、やがて深く砂に埋もれていくのでした。ここはまさに船の墓場なのです。
ちなみに「竜骨」というのは船の構造の一部の名称であり、それが作品名にも使われているということになります。余談ですが、磐城は竜宮伝説のほか、龍神や八大龍王の信仰が非常に厚く、さらに磐城平城が別名「龍ヶ城」と呼ばれていたなど、大変龍と縁が深い土地です。また、昨年(2017年)アメリカのトランプ大統領が訪中した際、習近平国家主席が「われわれは自らを龍的伝人(龍の末裔)と呼んでいる」と説明し話題となりました。蔡さんといわきを考える上で、「龍」という存在はひとつの魅力的な補助線になるのかもしれません。
尚、前掲書でテキストを担当している川内有緒さんは、その後、蔡さんと志賀さんの約30年にわたる交流を描いた作品『空をゆく巨人』を著し、第16回開高健ノンフィクション賞を受賞されました。おめでとうございます。私たち磐城衆にとっても、大変嬉しい受賞です。
さて、防潮堤に登りましょう。震災後に作られたものです。グラウンドではいわき海星高校の野球部が練習しています。2013年春、いわき海星高校は「21世紀枠」で甲子園に出場しました。炊きたてのお米みたいな顔をしたかわいらしい坂本キャプテンに、浜のおばさまたちが黄色い歓声を上げていたのはまだ記憶に新しいですね。この練習風景を、ぜひこの防潮堤の上から見てほしいのです。
津波被災地の各所に多くの防潮堤が作られました。思うことはありましたが、私は結局何もできませんでした。工事中は浜に降りることさえ困難で、いざ完成してみれば、行き来する(階段などの)構造が極めて少ないのです。中でも、いわき海星高校の前に立ちはだかるこの防潮堤は、私の目にかなりシンボリックに映っていました。
しかしある日のことです。工事が終わり、物々しいフェンスや看板が取り除かれた後、私は一人、神白海岸に降りるべく、この防潮堤に登ってみました。グラウンドには球児たちの伸びやかな声が響いています。紅白戦をしているようでした。日曜日ということもあり、多くのギャラリーが詰め掛けています。驚いたことに、真新しい防潮堤は当たり前のように「三塁側スタンド」として利用されていました。
些細なことかもしれません。しかし私はそこで茫然としたのです。ファウルボールが防潮堤を越え、浜まで飛んで行ってしまいました。一年生が全速力で拾いに行きます。人々は防潮堤に這い上がり、それを見立て、利用し、そしてすでに共生していたのです。胸がすく思いでした。
小名浜の涼しげな海風を受けて、もう一度この景色を眺めてみましょう。向こうに権現山。古代の王が眠る丘には世界一の漁業無線局が立ち、はるか遠くで操業する漁船たちと日々交信しています。そこで活躍するであろう漁師の卵が、いまここ、いわき海星高校で学んでいます。みなさんが立っているのは、東日本大震災後に作られた防潮堤です。振り返れば、忘れられたようにひっそりとした浜。かつては座礁の名所であり、廃船が寄り付く墓場でした。そしてここから掘り起こされた竜骨が、蔡國強さんの作品として、世界中を飛びまわっています。たったこれだけの中に、時間的にも空間的にも、なんと多く射程が含まれていることでしょう。
のちに私は友人たちと、この神白を巡るツアーを企画しました。参加しやすいよう「フォトツアー」という体裁になりましたが、私は万感の思いでガイドに臨んでいました。漁業無線局から始まり、川を下っていわき海星高校へ。あいにくの小雨で心配しましたが、その日も野球部の練習は行われており、やはりギャラリーが三塁側スタンドに詰め掛けていました。
始まりも終わりもない日常を私たちは生きています。忘れたいものがあります。忘れてはいけないものもあるでしょう。どうしようもなく失ってしまったものがあります。望まずとも立ち現れてしまったものがあります。それに向き合うしなやかさとタフさを、私はこの7年間、多くの人たちから学んできました。それでも何かに突き当たった時、私は今でも時折、ふとこの防潮堤に登りたくなるのです。
参考文献
草野日出雄『写真で綴る実伝・いわきの漁民』1978
青木淳・大屋孝雄『福島の磨崖仏 鎮魂の旅へ』2017
いわき万本桜プロジェクト『宙から桜が見えますか』2017
磐城国 海の風土記(全10回)
目次
vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画
vol.2 ウミガメ〜彼方とヒトをつなぐもの
vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性
vol.4 神白~ちはやぶる神の城から
vol.5 住吉~極東の海洋都市
vol.6 湯ノ岳~小さな霊峰の幽かな息づかい
vol.7 ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体
vol.8 剣~ハマの亡霊が魅入るもの
vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市
vol.10 クジラ~沖を行くものの世界(完結)
イベント名 | 神白地区 |
場所 | いわき市小名浜神白 |