いわき市の郷土史研究家、江尻浩二郎さんによる新連載「磐城国 海の風土記」。残り2回です。今回は、小名浜「中島」。小名浜の歴史が紐解かれます。
磐城国 海の風土記 vol.9
中島~ハマに浮かんだ超過密都市
文章:江尻浩二郎
「むがーしむがし、波引いで、津波来るどなった。ある人らは富ヶ浦さ逃げだ。ある人らは熊寺さ逃げだ。さで、助かったのどっちだ?」
当時小学校の低学年だったと思いますが、父が私に問題を出しました。富ヶ浦(富ヶ浦公園)に逃げた人と熊寺(自性院)に逃げた人ではどちらが助かったのか。富ヶ浦公園というのは小名浜を一望する高台にあり、一方自性院と云うのは旧中島村のマチ場にあるお寺です。私の自宅からはどちらも似たような距離ですが、見るからに標高が違いますから、あまり考えず「富ヶ浦」と答えるとハズレでした。
富ヶ浦に行くには小名川を渡らなければいけない。津波は川を上るので、そこで流されてしまったのだといいます。仰天。では答えは熊寺なのか。熊寺で助かるのか。「熊寺さ行ぐ時、少し上っぺ?」 わ。稲妻のようにその細い路地を思い出します。上る。確かに上る。少しだけ高い。でも熊寺に行くなら諏訪神社まで行った方が・・・あ、そうか、諏訪神社に行くにも川を渡らなきゃダメだ。
父はそれから、たくさんの話をしてくれました。印象よりも理屈で考えなければいけないこと。逃げるときは一刻を争うのだから、まず熊寺を目指さなければいけないこと。その余裕もなかったら、むしろ家から動かないこと。ここが「中島」という地名なのは、その昔、中州だったからであり、周辺より少し高いのだということ。
この一連の話は幼な心に衝撃で、私はその後、何度も何度も津波が来る夢を見ることになります。
時は流れ2016年9月、現代美術集団「カオス*ラウンジ」による市街劇「小名浜竜宮」を開催した際に、それを観に来た、地形や地質の専門家の方からこんな話を聞きました。「自性院の地形が不自然です。ここは、津波からの避難場所にするため、人工的に盛っている可能性があります。」
これには驚きました。しかしよく考えてみるとすごく理にかなってるんですね。下段の図①は地理院地図を元に私が作成したものですが、赤いエリアを見てください。斜めの線は小名川の川筋です。底辺は埋め立て前のスカ(砂浜)との境目。左辺の黄色い道路は現在の鹿島街道です。
このエリア内で最も標高が高いのは自性院で、最高地点で5mほど。諏訪神社や善行院や浄光院などに避難したいところですが、すべて川を渡らなければなりません。かといって西に逃げると「元川」という小川(現在は暗渠)があり、やはり低くなってしまうのです。一刻を争う場合に、ここに住む人々が少しでも生存可能性を上げるためには、エリア内に避難ビルよろしく高所を設けるしかない。
うちは自性院の檀家なので、所用があって訪ねた際、この件を副住職に質問してみました。同寺は大正6年10月1日の暴風雨で本堂が倒壊。文書の一切が失われていて、昔のことはよく分かっていません。盛土したという「言い伝え」でもあれば面白かったんですが、それも特になく、また、震災時に墓石の倒壊がほとんどなかったため、近隣より地盤が強固であるという認識だそうです。つまり盛土はしていないだろうということなんですが、実際はどうなんでしょうか。ボーリング調査でもしてみたいところです。
そんなことがあって間もなく、2016年11月22日早朝、福島県沖でM7.4の地震が発生し、最大震度は5弱、宮城県と福島県に「津波警報」が出されました。NHKには夜明け前の小名浜港が大映しとなり、「すぐにげて!」と赤く強調されたテロップと共に「東日本大震災を思い出してください!命を守るためにすぐ逃げてください!津波はすぐに来ます!」などと緊迫したアナウンスが延々と続き、その是非が話題となったあの時です。
あの時も自性院に避難した人はいました。標高がせいぜい5mですから、やはりより高い場所へ逃げなければならないのでしょう。しかし前述のように、どこへ行くにも川筋を越えることになります。津波の到達が非常に早い場合、むしろ危険性が高い。若い人ばかりの世帯ならフットワークも軽いでしょうが、車は使えませんし、なかなか判断が難しいところ。ちなみに私は、母と共に自宅に残りました。父の言葉が頭をよぎりました。
以前、市内の僧侶の方から伺ったのですが、この自性院をはじめ、小名浜の寺院の建築は「土間作り」と云うのだそうです。気にしたこともありませんでしたが、言われてみれば、本殿の中に広い土間があるというのは、よそではあまり見たことがないように思います。これは海難や津波で一度にたくさんの人が死んでしまう時、遺体をとりあえず本殿に運び込んで安置するための間取りなのだと云います。私はそんな、悲しい寺の檀信徒なのでした。
余談ですが、なぜ自性院が「熊寺」かというと、昭和の初め頃、文字通り熊を飼っていたのです。みんなが観に来たりして人気がありました。しかし戦争が始まると小名浜は艦砲射撃がありますから、何かのはずみで逃げ出しては危ないということで、よそに引き取ってもらったそうです。(ただ、私が子どもの頃は「殺された」と聞いていました。)昔は皆、「熊寺」としか呼んでおらず、私も正式名称は大人になるまで使ったことがありません。最近は「熊寺」が通じなくなり、少し寂しいです。
さてここで、中島村について簡単に説明しましょう。現在「小名浜」と呼ばれているあたりは、昔は単に「小名」と呼ばれていました。そのオカのほうを「岡小名」、ハマの方が「小名浜」と分かれたと考えられますが、当初から「小名浜村」という村があったわけではありません。俗に小名浜四ケ村などと呼ばれ、東から米野村、中島村、中町村、西町村と、四つの村が海辺に一直線に並んでいました。
住吉神社の磯山に海蝕の跡が見られるように、この地は海岸線が後退した古湾です。海面の低下が進行すると、海岸に平行する何本かの砂丘(浜堤)が形成されます。小名浜の古い集落は、最も海寄りの浜堤上に形成されました。
浄光院・安養院・自性院・地福院・心光寺・旧鹿島神社と一直線に並び、そのライン上に古い集落が延びています。対して山側は、後背湿地の水田を埋め立てて広がった戦後の新しい町で、建物の形状や屋根の色の違いなどから、今でも多少その気配を感じることができます。
中島という地名は、かつて小名川と元川の間が中島(中洲)のようになっていたところに、その由来があると考えられます。その狭い面積の中に、小名浜総鎮守諏訪神社があり、その門前町があり、寺院が二ケ寺(江戸期は四ケ寺)あり、船方の家々がひしめき合っていました。昭和期には銀行や郵便局、映画館、歓楽街、様々な商店が集中し、小名浜四ケ村の中では、都市的要素が強かったように思います。
ここで江戸期の資料を見てみましょう。平市教育委員会『内藤候平藩史料』巻一には、元和元年(1622年)9月の記録に「小名、四倉の両所は御領内の大浜にして、世俗小名千軒と云い伝へしかとも、二千竃余軒を並べ、其外四浜あり、惣して岩城七浜と云う」とあります。小名全体の話ですが、この時すでに2000軒以上あったというのです。
また『伊呂波寄頭書』遠の部にある「一小名浜出火家数其外覚書之事」に拠ると、享保7年(1722年)12月14日に中島本町で350戸焼失。翌年11月12日にはまたしても中島で800余戸焼失とされています。2年連続で一体何をしてるのかという感じですが、それはさておき、人口は分からないものの、これもかなりの戸数です。
その24年後、延享4年(1747年)の『村差出帳』によると、中島は535戸(2475人)となっています。戸数自体はかなり減っているのですが、この2475人という数字は大変気になるところです。
中島村の面積は、スカ(砂浜)を除いておおよそ0.5平方キロメートルほどですが、古地図を見ると居住区は浜堤上に集中していて、後背湿地となるエリアには明治4年の地図を見ても住居が認められません。その浜堤上の面積はざっと0.1平方キロメートルほど。これを元に人口密度を試算してみると1平方キロメートル当たり24,750人ということになってしまいます。
正確な比較にはなりませんが、この数字は、今年(2018年)4月時点で人口密度全国一位である東京都豊島区の22,887人を大きく上回ります。当時高層マンションなどもない時代、一体どれほどの過密地帯だったのかと驚くばかりです。
それではこの、中島を「島」たらしめていた、元川と小名川について見ていきましょう。
いわき地域学會『藤原川流域紀行』収録の佐藤勇児「自然と人間」に拠ると、元川は、滝尻川(藤原川)が小名浜第二小学校付近に注いでいたころの旧河道とされています。港湾建設以前は自然流下でしたが、現在は元川ポンプ場が設けられ都市の排水路となりました。
小名川は、中島およびその周辺の地形を形成するにあたり、最も重要な役割を果たしたはずの河川ですが、現在大変に流量が少なく、どこかの段階で劇的な変化があったものと思われます。ずっと気になりながら、それに関わる文献など見つけられずにいたのですが、岡小名誌編纂委員会『平成元年にみる岡小名誌』に以下の記述がありました。わが意を得たりという感じです。
現在の湯本磐城線(湯本街道)の東側の道路に沿った田園が、川田という俗称でいわれていたところです。(中略)この川田が、矢田川のもとの流れであるという説があります。相子島から大原を経て岡小名で曳川と合流し、小名川をものみこんでドンバラ川として太平洋へ入ったものと思われます。(中略)矢田川が藤原川と合流することになり、大原部落が現在地に移転してきたといわれています。現在でも大原部落の西側地区を「東田」と呼んでいるのは、その名残りということです。(中略)矢田川の藤原川との連結は、江戸中期といわれています。
この曳川(ひきかわ)がどこを指すのか分からないのですが、小名川の上流域を岡小名地区でそう呼びならわしていたのかもしれません。かつてはその名の通り船を曳いていたのでしょう。小名川は、諏訪神社脇を抜け、蛭川新川と合流し、まもなく海へ注ぎます。ドンバラ川は河口付近の小名川の俗称ですが、その名の由来は分かりません。
私は以前より、相子島から滝尻川(藤原川)合流点までの矢田川が、不自然に一直線なのが気になっていました。もちろん蛇行を改修する工事があったのでしょうが、それがいつ頃のことなのか分からないでいたのです。もし江戸中期に、矢田川と滝尻川の連結があったとすると、タイミングを含め非常に理にかなっていますし、合点が行きます。
このような連結は、一般的には「河川の付け替え」と云われます。江戸時代には各地で盛んに行われました。水上交通網の確立や、治水の目的を持って、川筋を変える訳ですが、最も有名な事例では「利根川の東遷」が挙げられます。
かつての利根川は、関東平野を南下し、東京湾に注いでいました。徳川家康が江戸に入ると、水路や堤防などを築いて流れを徐々に東に移し、最終的には銚子で海に注ぐことになる、大規模な河川改修が行われました。
川と云うのは、土砂を流して次第に川底に溜めていきますから、いわゆる「川さらい」を頻繁にしなければなりません。中島付近は勾配が少ないことから、かなりの頻度で洪水があったと思われますし、そこに矢田川の土砂が溜まっていくとなると、治水が最大の懸念事項であったことが容易に想像できます。
前掲書には「江戸中期」とありますが、残念ながら、この河川改修の記録を見つけることができません。ただ小名浜は、寛文10年(1670年)河村瑞賢により「東廻り航路」の拠点に指定され、幕府領や各藩の米の運搬を担っていました。その後、磐城平藩主内藤家が延享4年(1747年)延岡へ移封されると、小名浜そのものが幕府領となり、米野村には代官所が置かれます。地域の重要性、また資金面などを考えても、この頃に矢田川の付け替えが行われたということは十分可能性があると思われます。
また、最近、小名浜大原字中坪の方から大変興味深い言い伝えを聞きました。矢田川の付け替えとは全く違う話なのですが、矢田川と小名川が繋がっていたことを伝えるエピソードとして、もうひとつ、ここで紹介しておきましょう。
昔、湯長谷藩が米を小名浜に運ぶために川(運河)を作った。逆勾配だったため実際には使えず「内藤様のバカ川」と呼ばれていた。川筋はやはり「川田」のところで、大原字中坪に「はしぱ(橋場)」という屋号の家があり、そこに橋が架かっていたようだ。
「内藤様のバカ川」などと呼称が言い伝えられているあたり、なかなか信憑性があります。いずれにしても、湯長谷藩の資料や幕府の資料などから、このあたりの詳細が判明してくるかもしれません。今後の私の宿題です。
2年程前のことですが、ある辞典に「よごされた川」として掲載されていた、スラムのような薄汚い飲み屋街の写真が、ツイッター上でじわじわと話題になっていました。人に云われ見てみると、飲み屋の看板に見覚えがある。それは私がずっとずっと探していて、ずっとずっと見つけられなかった或る風景。小名川沿いの飲み屋街の写真だったのです。
みさを、とみ、湖畔、よねや、なぎさ、イメージ。移り変わりの早い飲み屋街のことですから、店の看板をつぶさに見ていくと、1972年から1974年頃の撮影だということが分かります。魑魅魍魎がうごめいていた小名浜の悪所。中島から見ると小名川の対岸になりますが、まさに私の原風景でした。
私の家は小さな醤油味噌醸造業を営んでおり、酒、たばこ、塩、その他食料品全般を扱う商店も構えていました。日の暮れかかる頃になると、まずは御用聞きで得意先を一回りして来ます。私も一緒について回り、この飲み屋街も毎日通っていました。
現在の写真を見ると分かるように、実は奥行きが全くなく、カウンターだけの一杯飲み屋で、こういうところに書くのはあまり宜しくないでしょうが、逆さクラゲ(後の温泉マーク)が見えることからも分かる通り、ちょっとの間、二階を使わせてもらうようなところでもありました。
はっきりとした時期を覚えていませんが、たしか私が小学生の頃、数軒燃える火事と、その後まもなく土砂崩れがあり、そのまま復旧されることなく、いつの間にかなくなってしまいました。遅くまで騒々しくて、ガラが悪くて口が悪くて、毎晩酔っ払いが川に落ちるようなところでしたが、それでも何故か私の記憶の中では、そこに灯る明かりの感じが、妙に美しく甘いのです。
ツイート主の方には場所を特定する証拠を添えてリプライしました。写真の中のいくつかのヒントから大捜索が行われていたようで、その中のひとつに「これは60年代半ば以前の光景ですね。サッシが一枚もないのはおかしい。70年代ではどんないなかでもこれはあり得ない。川も70年代ではここまではありえない。」というものがありました。ところがこれは前述のように1972年から1974年頃なのです。小名浜は「ありえない」町なのでした。
もう一度飲み屋街の写真を見てください。川底が見えています。驚かれるでしょうが、私はこの川に入って遊んでいました。
前述のように小名川は海との高低差が少なく、そのため、干潮時には川底が見えるほど引いてしまいますし、逆に満潮時になると、川岸ギリギリまで海水が逆流して来ました。湾の中の小川だけに一層顕著だったようで、私が小さい頃でも、潮の満ち引きと雨の兼ね合いで、川沿いはよく水が溢れていました。
昭和52年度からの工事で、河口にポンプ場が設置され、今ではそのようなことはありません。しかし、そういう意味でも非常に懐かしい写真なのです。
かつて海はマチの奥深くまで入り込み、常に呼吸し、ふと気づけば足元まで来ていることもしばしばでした。その時中島村は、河口にぽっかりと浮かぶ元の「島」に戻っていたことでしょう。海は、今とは比べ物にならないくらい、大きな存在感をもって私たちを取り巻いていたのです。
参考文献
いわき市史編纂委員会『いわき市史第二巻近世』1975
草野日出雄『写真でつづる実伝いわきの漁民』1978
角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 7 福島県』1981
学研プラス『ソラリス標準活用辞典/第五巻/社会Ⅲ/政治・経済・社会』1983
岡小名誌編纂委員会『平成元年にみる岡小名誌』1990
いわき地域学會『藤原川流域紀行』1991
いわきジャーナル『月刊りぃ~ど/平成21年5月号』2009
参考サイト
いわき市公式ホームページ『いわきの「今むがし」Vol.43』2016
磐城国 海の風土記(全10回)
目次
vol.1 霊人塚~かつての浜の忘れられた一区画
vol.2 ウミガメ〜彼方とヒトをつなぐもの
vol.3 おふんちゃん~古代富ヶ浦の霊性
vol.4 神白~ちはやぶる神の城から
vol.5 住吉~極東の海洋都市
vol.6 湯ノ岳~小さな霊峰の幽かな息づかい
vol.7 ジャンガラ~その多様性にみる海辺の身体
vol.8 剣~ハマの亡霊が魅入るもの
vol.9 中島~ハマに浮かんだ超過密都市
vol.10 クジラ~沖を行くものの世界(完結)
イベント名 | 小名浜中島 |